1.獣の王子と魔女、出会う
ティノは赤髪に碧の目を持っていたので、生まれてすぐに魔女の森に捨てられた。
この国では赤毛に碧色の目は親の持つ色に関わらず時折生まれ、そのすべては「魔女の子」として森に住む魔女に「返す」ことになっているのだ。同じ色を持つのが男の子だったら、その子供は王都に送られ「魔法使いの子」として王立魔法協会で育てられる。この国ではいつからか魔女は悪いモノで、魔法使いは国を救うといわれてきたからだ。
そうはいっても実際、医者もいないような辺境の村では魔女の知識が役に立つから、王都から離れればどこの町にも魔女がいるのは珍しくなかったが、ともかくそう伝えられていたから魔女が生まれると、国境近くにある魔女の森に捨てるのだ。あとは狼に食われようと魔女に拾われようとご自由に、というわけだ。
ティノは運良く、捨てられてすぐに森の魔女に拾われた。
魔女の家は森の奥にある。そこにはティノのように捨てられた子供たちが暮らし、薬草などの知識を学んで大人になったら独立するのだ。もちろん、どこにもいかずに魔女の森に住んでもいい。
ティノは今年十八歳になる。早い子供は十五、六で森を出て行くし、森でやりたいことがある者や森でしか生きられない者たちは早くからきちんと自分の意思をはっきりさせていたから、ティノの年になってまでどうするのか決めかねている者はめったにいない。少なくともティノと同じ年頃の五人の魔女は皆外に出て行ったし、ティノより年下の魔女も今年は三人、外に出た。
ティノは最近居心地の悪さを感じている。魔女達は基本的に自由を尊重していたから、ティノが自分の行く末を決めかねていようとせかしたりはしない。それはわかっていたがだからこそかえっていたたまれない。年配の魔女達の手伝いをしたりやれることはなんでもやったが、基本的に魔女は自給自足だ。自然暇な時間が出来て、そんな時ティノはいつも森を散歩した。
広く深い森だが、何百年にも渡って魔女達が暮らしている魔女の森だ。獣たちでさえ、魔女達には襲い掛かって来ない。
今日も片手に籠を持ち、薬草摘みの傍らティノは三時間近くも歩いて、他の魔女達が来ないような森の奥までやってきていた。
「おー、咲いてる咲いてる。秋になったら根っこを収穫しにこなくちゃね。あ、こっちの実は食べごろ。いっぱい摘んでジャムにでもしようかなあ。……こっちの葉っぱと、これは何に効くんだっけ。いいやとりあえず摘んでいこう」
森の奥に流れる小川の傍らで薬草や木の実を夢中になって摘んでいたティノは、いつのまにかあたりの空気が変わっているのに気づかなかった。否、変わった、というほどには変わっていないのだ。魔女の森と地続きの、魔女の加護の気配がある。けれどあたりの景色は違う。小川近くの湿りがちな斜面は芝生のしかれた大地に、木々のすっきりとした香りは薔薇の甘い香りに。
ティノは手元の薬草がなくなったことに気づいて顔をあげ、ぎょっとして立ち上がった。お城だ。ティノは城など見たことなかったが、魔女の住むレンガや漆喰の小さな家とは明らかに違う。建物にずらりと並んだ窓は数えるのも馬鹿らしいほどだし、三階建てらしい(窓が縦に三つ並んでいる)正面の館の奥には背の高い塔が見えるし、他に、奥にもまだ建物が続いている。そして城からティノの立つ芝生の間を埋めるのは白い石の敷き詰められた広いテラスと、テラスのそこかしこに置かれた、そして下の地面に植えられた色も形もさまざまな、無数の薔薇。テラスから地面に降りる三段ばかりの、けれど大人が五人は両手を広げて横にならんでもまだ余裕がありそうなほど広い、階段の両脇にある手すりには杏色の蔓薔薇が巻きついている。落ち着いて見れば他の植物もあるのだが、どこもかしこも薔薇ばかりのように見える。
ティノは景色に圧倒されてよろめいた。これはもしかして、年長の魔女達から嫌というほど聞かされた「森の奥の禁域」だろうか。もしかしてもなにも、それしかありえない。森の奥に誰も手入れなんかしないのにこんなに薔薇が咲いているなんておかしいのだ。
ティノ達より十歳くらい年長の魔女が、子供を怖がらせようとわざと夜、ろうそくの明かりだけで話してくれた言葉が蘇る。
『森の奥にはね、私達魔女でも足を踏み入れてはいけない禁域があるのよ。目には見えないけど、耳を済ませていれば禁域のありかはすぐに分かる。禁域にはね、それは恐ろしい獣が棲んでいるの。獣は魔女を憎んでいるのよ、なぜかって? それは知らないわ。遠い遠い昔のことだし、理由を知るものは皆獣に殺されたのよ。良ーい? 絶対に、絶対に禁域に入り込んでは駄目よ。もしも間違えて入り込んでしまった魔女は』
「八つ裂きにされて獣に食べられる!」
だんだん声を小さくしていって、最後の言葉でいきなり大声を上げるものだから皆大泣きだった。などと思い出している場合ではない。ティノはそれこそ子供のころに戻ったように目に涙を溜めながら獣がそばにいないかときょろきょろとあたりを見回し、ともかく森へ戻ろうと踵を返す。多分城から離れるように走っていけば禁域から抜けられるはずだ。そうあってほしい。
祈りながらティノは走り出そうとして、けれど地面に置いたままの籠に朝からの労働の成果がつまっていることを思い出し、もったいないから拾おうと屈んだ。
一目散に逃げればよかったのに。
「『美しい人』?」
「断じて違います!」
実は最近右頬に新しく出来たほくろを気にしているティノは「美しい」という言葉に反射的に切り替えし、自分以外の声が聞こえたことに気づいて、恐る恐る足元を見た。なめし革で作った靴を履いた、自分の貧相な足を覆う、黒々とした影。三歩ほど離れたところにある、鉤爪のついた大きな、朱金のふさふさとした毛に覆われた四本の足……肢?
そろそろと腰をあげながら視線を上げると、朱金にところどころ赤の混じった毛皮はがっしりといた体につながって上へ上へと続き、ティノの身長より少し高いところに顔がある。猫科とも犬科ともつかない、今までティノが見たことのない顔だ。碧に金彩の散った色の目をしている。魔女の目と同じだった。
しかし兎なら丸飲みできそうなほど大きな口や垣間見える牙は、断じて魔女の持ち物ではない。
獣は、ティノが顔を上げると同時に耳と髭が垂れた。落胆の顔なのだろうか。
「なんだ、魔女か。魔女は『美しい人』ではないなあ」
「では、では私はこれでっ!」
「ちょっと待って」
鉤爪つきの前足で踏み下ろされたティノに何ができようか。
手加減したつもりだったらしい獣は「あ、悪かった」といいながら前足を除けた。そのまったく誠意の感じられない謝罪にはむかっ腹が立ったが、どうやらすぐに八つ裂きにして食べてしまおうというわけでもないらしいのに、あえて獣に立ち向かうこともあるまい、とティノはおとなしく立ち上がり、服についたかもしれない汚れを手でぱんぱんと払った。
「最近はちっともここに『美しい人』が来てくれないんだけど、どういうことなんだろう」
「美しい人って、なんですか?」
「私に真実の愛をささげてくれて、呪いをといてくれる人だよ。魔女なのにそんなことも知らないの?」
「はあ、すみません。私の知ってる限りそんな話は聞いたことがありませんし、ここは魔女の森の中にあるから、多分魔女以外の人間は来ないと思います。魔女もここまでは来ませんから」
「じゃあ誰が私の呪いを解いてくれるの?」
「……さあ」
太陽に朱金の毛がきらきらと光る獣姿は威厳があって良い感じだけど、喋ると残念だな。とティノは思った。もちろんそんなことをいって「じゃあ獣の真価を発揮してあげよう」と八つ裂きにされても困るので黙っていたが。
獣は落ち込んでいる。見るからに落ち込んでいる。頭が垂れているし全体的にしょぼくれている。少しの間そんな獣を鑑賞していたティノだったが、自分が今すべきことはこの禁域を出ることだと思い出した。
「ええと、獣さん。私もう帰らなくちゃ…」
「私はドフト。ドフト・ゴルデルゼ。獣さんはやめて殿下かドフト王子と呼んでくれ、魔女」
「ティノです」
「魔女。私は長い長い時間をここに囚われている。どうか助けてくれ、私に真実の愛をささげてくれる『美しい人』を連れてきてくれ」
そういう獣の毛艶はぴかぴかしてるし鼻も艶つやしているし、髭の先までぴんとしている。ここは驚くほど魔法の気配が濃かった。それこそティノがもう少し気をつけていればすぐに禁域の気配に気づけただろう。そして魔法はすべて、獣…、ドフトの為に存在している。
つまり代償はドフトの姿なのだろう。とティノは察しをつけたが、それにしては、使われる魔法に比べて代償が小さすぎる気がした。恐らく「真実の愛」とやらと共にこの場所の魔法は消失するのだろうが、それもぬるい話だ。これだけの魔法の終わりならば、ドフトの命を要求しても不思議はない。
あるいは。
そこまで考えて、ティノはその先を考えるのをやめた。古い古い魔法だ。新米魔女が下手に首を突っ込んで済むようなことではない。
「とりあえず聞きますけど、どんな人がいいんですか?」
「顔と体が美しくて胸が大きくて、でも痩せている女が良い。唇がちょっとぽってりしてると尚良いな。あと私は王子だからそれなりに身分のある娘でないと」
「…ええと私帰りますので……」
「心あたりがあるのか? さすが魔女だ」
「ないです。というか魔女以外に知り合いがいないので無理です。獣さんは、そういう女性にささげられるものはなにかあるんですか? ここは魔法が解けたら多分魔女の森の一部になるしお城も時間が進むから壊れちゃうかもしれない。王子といってもとっくに国は滅んでいるんですよね。財産があるとか手に職があるとか特技があるとか。自分が何も持ってないのに相手にだけ容姿とか真実の愛とか要求するのはずるいと思いますよ」
もういい加減面倒になって立て続けに言ったティノの言葉は、ドフトの理解を超えていた。生まれてから我侭はかなえられて当たり前だったし、塔に幽閉されたり獣になったりしているものの、城のすべてはドフトのもので、望めば楽器は音楽を鳴らしたし食事はテーブルに並んだ。手に職を持つことなど考えたことはなかったし、正直に言えば人間に戻ってから、真実の愛をささげてくれた『美しい人』と一緒に暮らしていくとか考えたこともない。
「………は?」
「ですから、あなたが女性にささげられるものは何ですか?」
「城に宝石や金貨はあるが…」
「まあそれも大事ですけど、それは魔法のおかげでしょう。あなた自身には何があるんですか?」
「そうだな。……美貌」
ティノはため息をついた。駄目だこの獣。
「獣さん。あなたそれで胸が大きいのがいいとか身分が高いのがいいとか図々しい」
「そうか?」
「ともかく、私は一度戻ってお姉さまたちと相談してみます」
ティノは、またここに来る気などまったくないのに口先でそう言った。今度こそ籠を抱えてさようならだ。
しかし背を向けたティノに、獣の必死な声が届いた。
「あ、待ってくれ。今度は、今度はいつ来る? 明日、明日は来てくれるか?」
その、追いすがるような声に思わずティノは振り返り、「明日また来ます」と答えてしまっていた。
獣は目を細め、牙をむき出しにして笑った。ティノはその鋭い牙の輝きに青ざめた。