異違温度
苦渋の、進度
秋彦はこの街に来てから、なんだかんだと理由をつけては誠を外に連れ出していた。
誠を街や人込みに慣れさせるため、それと純粋に自分が街に出たいという両方の理由からだ。だが誠が取り囲まれるまでにそう時間はかからなかった。大体何もしなくても誠は目立つ。
その顔立ちから外国人に話しかけられることもあったし、持ち慣れるために持たせているギターケースも目立つ理由になった。ヴォーカルの勧誘にあうのだ。写真を撮らせてくれと人が寄ってくることもあった。
雑誌に出てCDがリリースされた頃には誠はまともに歩くことさえできなくなってしまった。勝手に写真を撮るのは当たり前。ひたすら名前を叫ぶ輩もいる。髪を引っぱったり物を盗ろうとしたり、アヤメのようにいきなり抱きつこうとしてくる者も少なくない。秋彦はマネージャーだけでなくボディーガードまで務めなくてはいけなくなった。
当然、誠は嫌がって外に出るのを嫌がったし、秋彦も外出を控えたほうがいいと思っていた。だがアヤメからファンサービスも仕事のうち、という助言と指令を出され結局それに従うこととなった。
“毎日ほんの数分でもいいから二人一緒に街に出ること”これが一つめの指令だ。
確かに今の誠をひとりで街に出すのは飢餓状態の狼の群れにまるまると太った子羊ちゃんを放り込むに等しいものがある。その点、秋彦は誠より小さくてもボディーガードには持ってこいだった。
一方誠は、この頃から自分がしていることや秋彦の気持ちに疑念を抱くようになった。
(どうして秋彦は平気なんだろう)秋彦は二人きりになっても同じことを繰り返すばかりだ。「誠が歌ってくれるから自分の歌は世の中に出られた、そのことで十分だし俺は、むしろそのままでいてくれるほうがいい」と。
誠には理解できなかった。今頃こんなことを思うのがおかしいのもわかっていた。
(僕は一体何をやってるんだ? これは秋彦が受けるべき賞賛なのに)それでも後戻りはできないし取り消すこともできない。誠は何度も秋彦に訴えるが、秋彦はこのまま行ってくれ、の一点張り。
秋彦はこの栄光をなくしたくなかったのだ。今、誠がやめればすべてが白紙に戻る。せっかく日の目を見られた秋彦の曲が夜のアーケードで流れるだけのものに逆戻りしてしまう。
アヤメだけではない。秋彦も誠が見せてくれたこの夢が覚めないことを心の底から願っているのだった。
「サインください! このギターケースにお願いします!」
“態度のいいファンにはサインをしてあげること”二つめの指令であり誠にとって苦痛な時間のひとつだ。秋彦の指導でそれらしいものは書けるようになったが自分の名前を書いただけで何が嬉しいのかわからないのだ。それをやっとで書いていたというのに、情報化社会によって状況が悪化してしまった。
“MAKOTOにサインをしてもらうと歌がうまくなる”
“ギターにサインしてもらえばMAKOTOみたいに弾けるようになる”
いきなりネット上に出現した根も葉もない噂のせいで誠のサインは妙な価値を見出し始めた。もちろんサインを欲しがる人数も、どっと増えた。
巷ではサインの入った物が冗談のような金額で取り引きされていることも二人の耳に入ってきた。
誠は、自分を置き去りにして猛スピードで展開していくこの状況をどうすればいいのかわからなかった。ただ、『やっぱりテレビには出られない。最低限そこは譲れない』と宣言したため、その気持ちを汲んだ秋彦側が折れた。
その結果“夢に怖い顔のおばあちゃんが出てきてどうしてもダメって言ったんです!”などという驚きの理由でアヤメは無理矢理、納得させられることとなってしまった。