星空心境
その頃と、あの頃と
仕事を終えた誠はいつものように事務所に鍵を返してから帰ろうとしていた。
「あ、ちょっと待って」
ドアノブに手をかけた背中に春山が声をかける。
「今日はなんだか、ぼんやりしていたように見えたけど何かあったのかい?」
誠は、ハッとした顔になり急いでノートを取り出して返事をした。
『すみません 次からは こんなことがないようにします』
春山は、ノートを見てすぐに誠が勘違いをしていることに気付いた。
「いや、違う、違うよ誠くん。仕事はしっかりしてくれて助かってる。そうじゃなくて考え事をしているように見えたから何かあったかと思っただけで……あっ! まさか林さんに何かされたのかい?」
林は確かに誠の邪魔をしにきたが、それはいつものことだ。春山が聞きたいのはそういうことではないとわかっているので首を振ってみせる。誠は少し考えてからノートのページをめくり何か書き始めた。
春山はいつものようにその様子を見ながらゆったりと待っている。
たとえノート越しであっても誠が返事を返してくれることが、誠と会話ができることがうれしいのだ。今でこそ誠は表情やノートに書き出すことで気持ちを表すようになったが、最初の頃は無表情で首を縦か横にわずかに振るだけの子だったのだから。
六年前。
春山は正から、ずっと家に閉じこもっている誠の将来が心配だ、と相談を受けていた。話を聞くばかりで誠に会ったことが一度もなかった春山は、まず最初に本人を説得して家から連れ出してくるように正に言った。
ちょうど店の手伝いが欲しかった時期で、うまくいけば働いてもらおうと思ったのだ。
後日、正が申し訳なさそうに連れてきたのは、うつむきがちな白くて華奢な少年で、春山が抱いた第一印象は“貧血のマッチ棒”だった。
静音が人形のように扱っていることも原因だったが、この頃の誠は本当に頼りない感じで知らない人が見たら入院患者かと思うほどだったのだ。それなのになぜか春山は誠を見て思った。「この子はきっと大丈夫」と。春山は誠本人の意思確認と、心配する正の説得をした上でまずは働かせてみることにした。
そして、その判断は正しかったと知る。誠は仕事を吸い込むように覚え、驚くほどにうまくこなしていったのだ。
春山は当初「自分ではキツくなってきた荷物運びをしてくれれば助かる」程度にしか考えていなかったが、誠は嘘のような早さで仕事を覚えていくうえに仕事に対しての責任感もある。それを見抜いてからは店主である自分の仕事もどんどん任せていくようになった。
できることが増えるにつれ誠は見る間に明るくなり表情も少しずつだが豊かになっていった。外に出るようになったことで青白さは消え失せて立派に筋肉も付き身長もさらに伸びた。
春山は、誠が成長して行く様をまさに目の前で見ていた人物なのだ。
誠は、ささっと書き上げたものを春山に見せた。
『昨日見た夢がまるで現実のようだったので頭に残っていて なるべく気にしないようにしていたんですが でも悪い夢ではないので大丈夫です』
下手なことを書くと春山が心配することはわかっているので聞かれる前に悪い夢でないことが付け加えられている。
ゆっくりとした仕草でノートを返しながら春山が笑いかけた。
「夢か。何かできることがあれば何でも言ってくれよ? 私でよければいくらでも話を聞くし力にもなるから」
誠は、いろいろな意味を込め深くうなずいてみせてから、帰る意思を伝えた。
「あぁ、わかった。気をつけて帰るんだよ。また明日も頼むね」
春山の言葉に微笑んで店を出た。
誠はしばらく歩いてから、いつものように空を見上げた。この辺りは街灯も少なく大きな街からも離れているので小さな星までよく見えるのだ。
(あ、顕微鏡座だ)この星座は微かなもので、知る人ぞ知るというところがまた誠のお気に入りだった。星空を仰いで思わずフッと笑い、なんとなくそのまま立ち止まる。
いつもは間違いなくまっすぐ家に向かう誠だが、この日はなぜか足が重くなっていき、まるで地球と一体化しているような錯覚を起こし始めた。