希望微笑
2番目の、客
「お疲れっしたー」
タイムカードを押した秋彦は水島に声をかける。そのまま返事も待たずに壁に立て掛けてあった黒いギターケースを手に取った。
「お疲れ。今度ボケたことしたら店長に報告するから、覚悟しときなさいよ」
「はーい、了解しました」
びしっと敬礼して帰ろうとする背中に声がかかる。
「今日も歌いに行くの?」
「はい、毎日行ってますからねー」
「ふーん、ストリートなんとかってやつでしょ? それってその先があるの?」
その先……水島がさらっとと言い放ったその言葉は今の秋彦にとってヘビー級ボクサーが繰り出すボディーブロー並の威力があった。
「や、やだなぁ、ミュージシャンがステージに上がるのは当たり前ですよ。今の俺にはそのステージがストリートってだけで、そのうち違うステージに上がる予定もちゃんとあるんですから!」
最後のほうは祈るような気持ちで絞り出したセリフだった。
「へー、すごいじゃん。ちなみにいつもどこで歌ってんの?」
「えっ?」
秋彦は答える前にまず驚いた。ここでアルバイトを始めてから何年もたつというのに、今の今までそれを誰からも聞かれなかったことに気付いたからだ。
(これって、誠と出会ったことで何かが変わってきてる証拠かもな)秋彦は自分の中に、ほわっとした喜びのようなものを感じた。
「商店街のアーケード、メインから一本それたとこにある靴屋の前です!」
いつものように誰も立ち止まることなく秋彦の前をただ通り過ぎて行く。だが秋彦はなぜか全く気にせず歌い続けていられた。水島との会話によって生まれた小さな希望は、まだ胸の中に残っているのだ。
♪それに理屈なんていらない! なぁそうだろ? そんなもんにつぶされてそれを言い訳にするくらいなら 俺は こののど切り裂いてやる……
ふと、女が忙しなく駆けてくる姿が秋彦の視界に入ってきた。数時間前に顔を見てきたばかりの水島だ。よく見れば秋彦を指さしながら走るその後ろにもうひとり誰かがいる。恥ずかしいようなうれしいようなくすぐったい気持ちを抱いて秋彦は歌い続けた。
♪どこかのスターは特別じゃないんだよ その目開いてよく見てみろよ 自分と同じ人間さ! いつからこの星の人間は つまんなくなっちまった……
歌い終えた秋彦の耳には二人分の拍手が聞こえてきた。余韻を噛み締め頭を下げる。
「せっかくだから友達連れてきちゃった」
紹介された女は微笑み、無言で頭を下げた。
誠以来初めての客。しかも水島がきてくれるとは以外中の以外だった。
「ねぇ、どうしてメインの通りでやらないの? あっちで歌ってる人もいたよ?」
私服だとイメージが全く違って見える水島が聞いてきた。犬猿の仲である上司と生意気なアルバイトという組み合わせではこんな普通の会話さえ奇跡のようなものだ。
「本当はメインの通りで歌うのは禁止されてんですよ。監視の人がくれば、そいつらは退去させられますから。それでもあっちなら目立つし人もよく通るから有利ってことで禁止されても行く奴が多いんですよね。悪質だと出入り禁止になるらしいけど本当かどうか」
「へぇ、その世界にもいろいろルールがあんのねー」
と、その時いきなり着信音が鳴り、それまでずっとだまっていた女が話し出した。
「え? もうそんな時間? ごめん、すぐ帰るから。……うん、じゃあね」
携帯をしまうと無言で水島を見た。
「ん? あ、そうだね。そろそろ行こっか」
確かに遅い時間だった。遅くに女二人がうろつくのは感心しないことだ。秋彦は急ぎ礼を言う。
「あの、今日はきてくれてほんとに、何ていうか、マジでありがとうございます!」
地面につきそうなくらい深々と頭を下げた姿を見て水島は呆れ顔だ。
「ちょっとー、それじゃまるで初めてのお客さんみたいな扱いじゃないの。ひとりひとりにそんなに頭下げてんの?」
本当のことを言う気になれず秋彦はニカッと笑ってごまかした。
「おっと、もう行くね。じゃ! 負けちゃダメだからねー」
水島だけではなく最後はもうひとりの女も秋彦に声をかけた。
「そうそう、負けないで」
二人の後ろ姿を見ながら秋彦は疑問とひたすらに戦っていた。だが感想などどうでも、きてくれただけで十分にありがたいと思い素直に喜ぶことにした。
二人が完全に見えなくなってからハードケースにギターと看板をしまい始めたが、途中で思い出したように手を止めて遠くに目をやる。(なーんか誠の顔見たくなっちゃったなー)