憂鬱母親
杞憂の、取り扱い
それを確認した静音がリビングに転がり込んできた。
「ねぇ、ちょっとお父さん! 今、誠が帰ってきたんだけど、なんだか顔色が悪いように見えて……もしかして知り合いのとこに泊まるって言ってたけど本当は帰りたくても帰れなかっただけなんじゃ」
正は朝からずっとこんな調子の静音の相手をしていた。新聞に目を落としたまま事務的に返事を返す。
「誠はもう子供じゃない」
「もう! お父さん朝からそれしか言ってないじゃない! 誠のこと心配じゃないっていうの? あの子は、あの子は、あんな風なのに?」
「誠はもう子供じゃ……」
「あーもう! これだから男親は! だいたいあの子がいきなり外泊だなんて言い出した時点で何かあるって思わなきゃいけなかったのに、あーもう! もう!」
静音の手の届く範囲に手頃なぬいぐるみがいればきっと首を締め上げられていただろう。
(こいつはきっと名前を間違ってつけられたんだな)正は、そう思いながらわざとバッサバサと音を立てて新聞をたたんだ。そして何事もなかったかのように座り直してから静音の顔を見て言った。
「コーヒーおかわり」
「……!」
静音は無言でコーヒーを注ぎ乱暴にテーブルへ置いた。注いだときより少しだけ減ってしまったが正は特に気にしていない。カップを持ち上げると減った名残の雫がテーブルと床に小さな模様を作った。
夏でもホットコーヒーを飲むのが好きな正のために桜田家ではコーヒーメーカーが一年中活躍している。誠がいつしかコーヒーを飲まなくなってからは本当に一人のためだけに使われることとなったイタリア製の一品であった。
むくれ顔の静音は、お気に入りの味を堪能している正を横目で見て一度口を尖らせてから、誠の朝食の準備に取りかかった。
(んー、トーストと目玉焼きに、これはベーコンだな。あ、ベーコンエッグ! しかもいい焼き具合だ!)誠は家族の中で一番鼻が利く。“生きることは食べることだ”という説を持つ誠らしい特技だ。洗面所にまで届けられたにおいのおかげで空腹を実感し直し、好物と早く対面するために急いで服を着た。
誠は両親の顔を見る前から自分のことで盛り上がっているだろうという予想はできていた。その上で、リビングがどんな空気になっているのかを楽しみにしながら素早くドアを開けた。
案の定、フライ返しを手にしている静音は興奮していたし、コーヒーを飲み干した正はその相手をすることに飽きていることが一瞬で見て取れた。
「こんな時間まで食べてなかったならおなかすいたでしょ? ごはん終わったらナシがあるからデザートに切ってあげる」
平静を装う静音だが隠しきれるほど器用ではない。
誠は蜂蜜をたーっぷりとかけたトーストをかじりながら二人の様子をうかがった。(さぁ、先に聞いてくるのはどっちだ?)
誠のことで二人がなにやらもめるのは今始まったことではない。目の前で言い合うのを避けていたとしても誠は耳が聞こえるのだ。当然、最初の頃から気付いていた。だがそれが二人のコミュニケーションの取り方のように感じていたし、誠は自分のことで両親が言い争うのをいちいち気にするよりも毎回どっちが勝つのかを楽しみにするような性格だった。
静音の様子からして今回は正が勝ったのだろう、と判断し誠は焼きすぎていないやわらかなベーコンを満足そうに頬ばった。