婚約者を寝取られましたが誰も責めません
ご覧いただきありがとうございます。
短編ですので、最後までお付き合いいただけますと幸いです。
その日は、朝から空がどんよりと鉛色に濁っていた。
冷え切った空気が肺の腑を重くさせ、何か取り返しのつかないことが起きるのではないかという胸騒ぎが、どうしても消えない。
その予感は、最悪の形で的中した。
婚約者が朝早く、泣きながら我が家を訪れたのだ。
婚約者の家の夫妻も彼女を支えるようにともに訪問し、青ざめた面持ちで門を叩いたという。突然の訪問に屋敷がざわめく中、私たちはひとまず彼女たちを応接室に通し、静かに待ってもらうことにした。
父と母、そして私――全員の身なりを整え、重い足取りで応接室へと向かう。
扉を開けると、そこには目を腫らし続け、震える婚約者と、彼女をまるで壊れ物のように庇い抱きしめる夫妻の姿があった。
婚約者は過呼吸のように肩を震わせ、とても言葉を発せられそうにない。そのため、父親のほうへ声をかけ、事情を伺うことにした。
「……なんですって?」
私の口から、乾いた声が漏れた。
昨晩、婚約者が何者かの手で純潔を散らされたというのだ。
誰の仕業かはわからない。だが深夜、見回りのメイドが婚約者の部屋から微かな嗚咽が聞こえるのに気づき、不審に思って部屋に入ったところ、その惨状が広がっていたという。
そこにあったのは、乱れた格好で泣きじゃくる婚約者と、荒らされたベッド、そして生々しい汚れだけだった。
すぐさま夫妻と、家の専属医、そして憲兵が呼ばれ、その場で徹底的な確認が行われたという。現場の状況、そして彼女の肉体の状態。
結果として、何者かが侵入した形跡自体は確認されたものの、犯人の足取りは一切掴めなかった。さらに、医師による診察の結果、確かに破瓜は確認されたものの、なぜか男側の体液や痕跡は一切残されていなかった。医師も首をかしげるばかりで、決定的な証拠は何一つ出なかったという。
「傷心の娘には申し訳ないが、一刻も早くその下種を捕らえねばと、人相だけでも言えるか確認したところ……あの子は『あなた(私)の前でないと話せない』と言い張って聞かなくてね」
父親は苦渋に満ちた表情で頭を下げる。
どうして私の前でなければならないのか。それを問うても、娘はただ首を横に振って泣きじゃくるばかりで、まともに会話にならなかったという。だからこそ、こうして朝早くに馬車を走らせてやってきたのだと。
アポなしの突然の訪問となった理由は分かった。だが、婚約者は今もまともに話せる状態ではないだろう――そう宥め、落ち着くまで待つからと声をかけようとした、その時だった。
婚約者が、顔を覆っていた両手をゆっくりとどけ、こちらを見た。
泣き腫らした真っ赤な目を真っ直ぐに向け、血の気のない唇を震わせながら、彼女は何とかその声を振り絞った。
絞り出すような、か細くも異様な響きを帯びた声で、彼女はこう告げた。
「ク、クリフが、昨日きたの。クリフなのよ」
その瞬間、応接室にいた全員の頭が真っ白になった。
「……ありえない」
思わず、そうこぼしてしまった。だが、どうしようもないことだ。
だっていま彼女が口にしたその名は、今日がまさに命日である、私の兄の名なのだから。
兄は一昨年、戦役で腕一本の軽い体になって帰ってきた。
紋章入りの指輪がついた右腕に縋りつく母と、それを窓辺から静かに見下ろす父。そして、その異様な光景を前に、ただ唖然として現実を認められなかった自分。
「……何を、言っているんだ」
喉の奥から絞り出した私の声は、小さく震えていた。
だが、婚約者の夫妻は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ哀れみと絶望の入り混じった複雑な眼差しで、私達を見つめ返してきた。
「そう、思いたい気持ちはよく分かるわ……。でもね、あの子は今、嘘をつくような精神状態じゃないのよ」
婚約者の母親が、娘の背中を優しく撫でながら、静かに涙を流す。
応接室に、鉛のように重く、恐ろしいほどの沈黙が落ちた。私の父も、母も、もはや言葉を失っていた。
責められるはずがないのだ。
最愛の娘の純潔を理不尽に散らされ、心まで壊された被害者である相手方の夫妻を。
トラウマと恐怖で錯乱し、死んだ男の名を叫んで怯える婚約者を。
そして――犯人になり得るはずもない、すでにこの世にいない「兄」を。
誰も、誰も責められない。
(――ああ、そうか)
冷たい塊が、すっと胸の底に落ちていく感覚があった。
もし私が「そんなのは彼女の狂言だ」「誰か別の男との不純に違いない」と声を荒げれば、私は『悲劇に見舞われた可哀想な彼女を容赦なく追い詰める、無神経で冷血な男』に仕立て上げられる。
もし相手が「クリフの幽霊が出たのだ」「死んだお前の兄がこの子を狂わせたんだ」と主張し続ければ、この理不尽な破滅はすべて『死者の呪い』という不可抗力として処理され、真相は永遠に闇に葬られる。
これは、計算なのか? わからない。
彼女は、本来こういうずる賢い真似をする人間ではないはずだ。ましてや、かつて愛した元婚約者の兄の名誉を自ら貶めるような真似をするだろうか。
その時、母が耐えかねたように席を立ち、そのまま部屋を出ていってしまった。
当然だ。死んだ我が子が、そのような真似をしたと言われれば、母の心が平静を保てるはずもなかった。
父は、静かに私を見つめた。
その目は極めて落ち着いており、無言のまま私の決断を確認している。
私は、小さくうなずいた。
「わかった。話してくれてありがとう。……どうする、このままここで落ち着くまで休んでいくかい?」
そう問いかけたが、婚約者はかぶりと首を振り、怯えたように足早にその場を去っていった。夫妻も頭を下げ、足早に帰路についていった。
私はすぐに、婚約破棄の手続きを進める。
純潔を失った貴族令嬢に対する、当然の、そして冷徹な貴族としての処置を淡々と進めていく。
書類を机に置き、淀みなくペンを走らせる。
あの日も、こうだった。兄の死をようやく受け入れてから、家門の後継者としてその重い立場を引き継ぐために、私は貴族として行動し、彼女と婚約したのだ。
一年間の喪に服し、婚約してさらに一年。今年こそは正式に式を挙げようと、両親たちが話し合いを進めていた矢先の出来事だった。
ふと手を止め、私は自分の左手を見る。
そこにはあの日、兄の腕から外し、家とともに引き継いだ紋章の指輪が冷たく嵌められている。
「……ああ。なるほど」
腑に落ちた。
私はすべてに納得し、また淡々と手続きのペンを走らせる。
それから、婚約破棄の手続きは滞りなく終わった。
傷つき、心を病んだとされた彼女は修道院へと送られ、そしてしばらくして、そこからも失踪した。
のちに聞いた話では、彼女は失踪前日、なぜかとても穏やかな笑みを浮かべていたそうだ。
私はその知らせを聞くと、馬車を走らせて荒涼とした墓地へと向かった。
向かった先は、他でもない、兄の墓だ。
あの日、腕一本しか帰ってこなかった兄の墓。
そして――兄と互いに深く思いあっていた、元婚約者の義姉さん。
私は墓の前に静かに座り込み、持ってきたワインの瓶のコルクを抜く。
グラスに注ぐことなどせず、そのままボトルに口をつけて喉へと流し込む。
かつて、戦場へと向かう前の夜も、兄とこうして並んで酒を酌み交わしていた。
本来ならば次男であるスペアの私が行くべきだった戦場に、なぜ兄があの日赴いてしまったのか。
酒を、冷たい墓標にも少量ふりかける。
「……ふざけるな。逃げたな」
婚約者――いや、義姉さんが本当に兄の幻影に奪われたのか、それとも誰かに襲われて狂ったのか、あるいは自分でその状況をでっち上げたのか。そんなことは、もうどうでもよかった。
兄も、義姉も、どちらも逃げたのだ。
家門の責務から、周囲の期待から、そして現実から、すべてを放り投げて。
私はゆっくりと立ち上がり、冷たい石の墓を見下ろした。
「なら、先にそう言えよ。……せめて俺には、このクソ兄とバカ義姉さん」
言葉の続きを飲み込み、私は背を向けて自分の足で家に戻る。
私には、すべてを背負うための責任があるからだ。
私は誰も責めない。そんな暇は、どこにもないのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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