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短編集

迷子の迷子の仔犬さん

掲載日:2026/08/15

〇お題「犬」の短編です。







 その日、三毛猫のミケ田巡査は、交番勤務以来最大の不覚に直面していた。


 陽だまり。

 煮干し。

 昼寝。


 本来ならば、午後の三時とは、その三つだけで一日が平和に完結していくはずだった。

 ところが、今日に限っては交番の前で、垂れ耳の柴犬の仔犬が大泣きしていた。


「おい、おチビちゃん。

 名前とお家は分かるかニャ?」


「わかんない、

 わかんないワン……!」


 童謡であったなら、ここで犬のおまわりさんが困るところだ。


 だが本日の迷子は、犬だった。


 そして当直は、猫だった。


「なんで、今日なんだニャ……」


 ミケ田は尻尾をぴんと立てたまま、こめかみを押さえた。


 しかもこの仔犬、ただの迷子にしては様子がおかしい。


 首には頑丈な金属の首輪。

 そこから伸びるリードは、仔犬用というより猛獣用のようにぶっとかった。

 小さな肉球は泥と草と赤土にまみれ、まるで日本列島を縦に走破してきたかのようである。

 濡れた瞳には、飼い主を探す心細さと、何かを成し遂げたものだけが持つ謎の覚悟が宿っていた。

 存在がアンバランスであった。


「お前、どこから来たニャ?」


「……クンクン」


 仔犬が急に泣き止んだ。


 鼻が動く。

 耳が立つ。

 尻尾が震える。


「この匂い……ご主人様だワン!」


「待つニャ。まずは保護手続きの書類を書くニャ――」


 言い終える前に、仔犬は走り出した。

 リードを握っていたミケ田巡査も、走り出した。

 正確には、引きずられていった。

 『にゃああああああっ』という叫びがドップラー効果を伴って。


 仔犬は速かった。


 魚屋の前を抜けた。

 ミケ田は氷の上のイワシと目が合ったが、手を伸ばす暇もなかった。

 商店街を抜けた。

 道行く買い物客が道を開けた。


 ――避けないで助けてほしいニャン。


 工事現場の足場をくぐった。


 作業員が叫んだ。


「猫の警官が、仔犬を追いまわしてる。

 連れ去り事案だ。

 警察に電話だ―!」


「今まさに、連れ去られているニャーーー!」


 善良な市民の通報で幾度となくパトカーに追跡されては、そのたびに振り切っていった。

 その間も、仔犬の脳内では、壮大な逃避行が続いていた。


「どこまで行くニャ!」


 雨の高速道路。

 黒い車。

 謎の組織。

 お前だけでも逃げろとかばってくれた優しいご主人様。


 荒野。

 川。

 熊。


 そのとき、コタロウの嗅覚に引っかかるものがあった。


 ――ご主人様は近い。


「こっちだワン!」


 仔犬は大きな公園へ飛び込んだ。


 中央広場で、青年が一枚のチラシを配っていた。


「すみません。

 この犬を見かけませんでしたか。

 コタロウっていうんですけど……」


 仔犬の尻尾が爆発した。


「ワン!」


「コタロウ!」


 青年は泥だらけの仔犬を抱きしめた。


「よかった……!

 ずっと探してたんだぞ!」


「ワン! ワンワン!」


 一人と一匹は固く抱き合った。


 周囲から拍手が起こった。


 その後ろでは、ミケ田巡査が芝生に大の字で転がっていた。

 制服は原形をとどめず泥だらけ。

 帽子はどこかに飛んでいってしまって、ない。


 コタロウは青年の腕の中から顔を出し、晴れやかな声で言った。


「ありがとうございますワン」


 その言葉には、一片の悪意もなかった。

 しかし、ミケ田巡査の耳はぴくりとも動かなかった。

 青年がようやくミケ田巡査の姿に気づいた。


「あの……この猫さん、どちらの方なんだい?」


 コタロウは首をかしげた。


「わかんないワン」


 黒い車とは何だったのか。

 謎の組織はどうなったのか。

 なぜコタロウは、そもそも迷子になったのか。


 再会できたので、すべて些事である。


「バイバイだワン」


 コタロウは、尻尾だけをぴくぴく痙攣させているミケ田巡査に、前足を振った。







 誰もいなくなった真夜中。


 ようやく意識を取り戻したミケ田巡査は、ゆっくりと上半身を起こした。


 あたりを見回す。


 知らない公園。

 知らない道。

 知らない匂い。

 交番の方角も分からない。


 コタロウのことも忘れていた。

 なにせ猫なので。


 そして、夜空を見上げて力なく呟いた。


「ここはどこなんだニャン」

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