静寂の川
大型連休など、この世から消えてしまえばいいとずっと思っていた。
サービス業に従事する者にとって、それは「祝祭」などではない。
押し寄せる無遠慮な客、捌いても終わらない注文、そして磨耗していく精神。私にとっての連休とは、ただひたすらに耐え忍ぶだけの「合戦」に他ならなかった。
ようやく訪れた連休最終日の深夜。私はアパート近くのコインランドリーにいた。
深夜一時まで営業している店内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、蛍光灯が放つ青白い光が、剥げかかったタイルを冷たく照らしている。
私はガタガタと震える乾燥機の前に座り、自販機で買った百円の紙コップコーヒーを啜った。
口の中に広がる、安っぽい豆の焦げた味と過剰な砂糖の甘さ。連休明けの疲れを癒す、RPGで言えば回復薬であろうか。さながらね。
ふと、壁の時計に目をやる。午前十二時四十五分。
この店は午前一時で施錠される。私の乾燥機のタイマーは残り五分。この五分が終われば、私の戦争も終わる。
静寂。洗濯物がドラムの中で踊る乾いた音だけが響く、贅沢な時間。
――その静寂を、暴力的な重低音が引き裂いた。
店の外に、眩いほどのLEDヘッドライトが突き刺さる。爆音の重低音を響かせながら、泥を跳ね上げた大型車が、タイヤを鳴らして駐車場に滑り込んできた。
ドアが開く。中から溢れ出してきたのは、私の最も嫌いな種類の「音」だった。
「マジでギリじゃね?」
「いけるいける、回しちゃえば勝ちだって!」
耳を刺すような高い笑い声。酒と煙草、そして安っぽい香水の匂いが、自動ドアの隙間から滑り込んでくる。
入ってきたのは五、六人の若者の集団だった。彼らは私が座っていることなど目に入らないかのように、多くの衣類を機械に放り込んだ。
私は反射的に俯き、コーヒーのカップを握りしめた。
彼らが持ち込んだ空気は、どこかの狂乱をそのまま引きずってきたかのように、泥臭く、そして無作法に熱い。マナーなどという言葉は、彼らの辞書には最初から存在しないのだろう。
乾燥機のタイマーが、非情に刻まれる。
あと五分。
この五分をやり過ごせば良い。
私は心のシャッターを降ろし、ただひたすらに、ドラムの中で回転する自分の洗濯物だけを見つめ続けた。
その時だ。集団の一人が、私のすぐ隣の乾燥機を乱暴に締めた。
バンッッッ!!!
「フゥ~! ギリギリセーフ的なぁ!? 」
私の背筋に、妙な冷気が走った。
単純な不快感を越える、生物としての絶望的なまでの価値観の相違、絶望。
ビー!
「乾燥が終了しました」
私は乾いた衣類をかごに急いでぶち込み、颯爽に店を出て車のエンジンをかける。
コーヒーがまだ残っていたかも······いや、それより小さい靴下などを機械に置いたままかもしれないと言う不安が頭を過ったが、そんな事はどうでも良い、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
「管理人さん! ごめんなさい! 」
ブオオオン!
私はランドリーの有る、ガラガラのショッピングモールの駐車場を出て、帰路を急ぐ。
勿論、一時停止と左右確認はしたよ?
フフフ。
明日は待ちに待った休みだ。 ······だと言うのに、ランドリーの『アレ』等の下品な笑い声が私のノイズとして残るのであった。
■■■■
連休明けの火曜日。世間はようやく、本来の静けさを取り戻していた。
私は愛車のハンドルを握り、県境に近い峠道を越えていた。サービス業に従事する者にとって、カレンダーの数字が黒色に戻る平日こそが、真の「休日」の始まりだ。
私の旅に、大層な計画などない。
目的地の近くにある地元のスーパーを覗き、その土地の一員のように振る舞い買い物をする。
そして、どこにでもあるチェーン店の看板を見つけては、いつもの味の料理で腹を満たす。見知らぬ土地の「生活」を、安全な距離から眺める。それが、私にとっての最も贅沢な休息だった。
昼食を済ませ、車を北に走らせる。
目指したのはキャンプ地でもある湖畔。
連休中は観光客で塗り潰されていた大地は、どこか疲弊したような色を湛え、深い緑に沈んでいた。
途中の駐車場で、心地よい眠気に抗えず目を閉じる。窓を少しだけ開けると、風が運んでくる土の匂いと、鳥の鳴き声だけが車内を満たした。連休中の騒音も、耳障りな笑い声も、ここには届かない。
一時間ほど微睡み、再びエンジンをかけた。
宿泊先の旅館に向かう一本道。道幅が狭くなり、ガードレールの向こうに剥き出しの河原が見え始めた時だ。
「げっ······何で······? 」
視界の端に、場違いな輝きを放つ金属の塊が映った。
見間違う筈も無い、昨日の私の静寂のランドリーを汚した連中だ。
路肩に無造作に停められた······泥にまみれたボディと、派手なステッカー。
ふと視線を落とすと、ガードレールには「立入禁止・危険」と書かれた古びた看板が立てられていた。だが、奴らはそれを無視したらしい。急峻な斜面の先、水の濁った河原で、彼らはまた火を焚き、肉を焼き、騒いでいた。
ここからでも、彼らが放つ無作法な熱気が伝わってくるようだった。奴らからすれば、この静かな山も、単なる騒げる空き地に過ぎないのだろう。
「休みの日にこんな所まで付いてくるなよ······」
私はルームミラーを跳ね上げた。
これ以上、視界を汚されたくなかったからだ。
その日の宿は、湖畔から少し離れた場所にある古い旅館だった。
木造の床が歩くたびに低く軋み、どこか湿り気を帯びた空気が漂っている。
「疲れたろ!? ゆっくり休んでくれよな! 」
主人の豪快な声に頷き、私は案内された部屋へ入った。
窓を開けると、遠くにあの河原があるはずの山影が、夕闇に溶け込んでいた。黒々と盛り上がったそのシルエットは、まるで何かを丸呑みにしようとする巨大な顎のようにも見えた。
■■■■
非日常は何時でもそうだ。テレビの液晶画面やSNSのタイムラインという、薄いガラスの向こう側から唐突に滑り込んでくる。
休日を終え、私はまたいつものルーティンに戻っていた。
夕方のピークが終わり、事務所で休憩に入る。歓楽街から流れてくる夜のピークに備え体力を回復させねばならないからだ。
常温のミネラルウォーターを口に含みながら、何気なくスマートフォンのニュースアプリをスクロールしていた、その時だった。
『――県内山間部の河原で男女数名の遺体、野生動物の仕業か?』
見覚えのある地名が目に飛び込んできた。
指が止まる。記事をタップし、添付されていた数枚の画像を目にした瞬間、喉の奥がカッと熱くなった。
ブルーシートで覆われた現場。その近くの林道に停められた、見覚えのある泥まみれの大型車。そして、被害者として公開されていた若者たちの顔写真。
間違いなかった。コインランドリーの静寂を爆音で引き裂き、あの立入禁止の河原で傲慢にバーベキューをしていた、あの連中だ。
ニュースの文面は、凄惨を極めていた。
遺体はいずれも鋭利な刃物のようなもので激しく損壊されており、首や四肢が不自然な形で散らばっていたという。
当初は野生動物の襲撃も疑われたが、傷口の断面があまりにも鮮やかであることから、警察は集団猟奇殺人事件として捜査を開始した、と締めくくられていた。
「マジで······? 」
ペットボトルを持つ指先が、微かに震えた。
恐怖、というのとは少し違う。私が感じていたのは、背筋を這い上がってくるような、ぞっとするほどの冷や汗だった。
自分と関わりのあった場所で人が殺される······あまり気分が良いものでは無い。
その火の粉が降りかかっていたのが、自分だったらと考えると······意味の無いifを考えてモヤモヤする。
だが、その恐怖の底で、私の内側にある「別の剥き出しの感情」が首をもたげた。
人間をバラバラに出来る刃物を持ち歩き、五人の若者を一瞬で屠るような狂人が、あの静かな山の中に潜んでいるのだろうか。それとも、あの場所にはもっと別の――。
仕事が終わっても、彼らの無惨な結末が頭から離れなかった。
私は翌月の平日休みが来るのを待ち、吸い寄せられるように、再びあの土地へと車を走らせていた。
■■■■
現地へ向かう旧道は、錆びついたバリケードによって完全に封鎖されていた。
「崩落の危険あり」という立て札が急ごしらえで設置されていたが、それが警察や自治体による「これ以上触れさせないための隠蔽」であることは、見ればすぐに分かった。あの河原は、存在を消されたのだ。
私は引き返し、前回と同じ古い旅館の暖簾をくぐった。
他に行き場のない不浄な好奇心を抱えたまま、夕食の席で、私はそれとなく宿の主人にあの事件について切り出した。若者たちの諸行、そしてニュースの凄惨な内容。
主人は地元の酒が入ったお猪口を弄びながら、私の話を遮ることもなく聞いていたが、やがて遠い山並みを眺めるような目で、ポツリと言った。
「俺らが子供の頃から、あそこには絶対に行くな、音を立てるなと言われて育ったんだよ。地元の人間は誰も近づかない」
「何かあったんですか、昔」
「戦国時代にな、大名の横暴で一族郎党、全員首をハネられた武家があったらしい。女子供までな。弔いもされず、ずっとあの河原の石の下さ……。あいつらは、マナーを破ったんじゃない。死者の静かな眠りを、土足で踏んづけたんだ。だから、そうなるよな、としか言えないな」
主人の言葉に、私は深く納得していた。
戦国時代、あの河原で非業の死を遂げ、弔われることもなく埋もれた一族。彼らが求めていたのは、ただの「静寂」だったのだ。それを、あの連中は爆音と傲慢な狂乱で踏みにじった。だから、殺された。
翌朝、私はどこか晴れやかな気分で旅館を後にした。
車を走らせ、山を下る。
トンネルを抜けるたびに、スマートフォンの電波が一本、また一本と戻り、窓の向こうには見慣れたコンビニやガソリンスタンドの看板が姿を現し始める。
いよいよ街の全景が見え、国道へと合流しようとした、その瞬間だった。
『……フ、フフ、フフフ……』
オーディオも消し、完全に密閉された車内の静寂の中に、滑り込んでくる音があった。
それは、耳のすぐ後ろで弾けるような、驚くほど透き通った、少女の笑い声だった。
■■■■
――街に戻り、私は完全に日常のルーティンへと復帰していた。
あの連休の狂乱も、血に染まった河原も、まるで最初から存在しなかったかのように世界は平穏だった。
ただ、あの日に聴こえた笑い声、あれだけが気掛かりであった。
次の平日休み、私は図書館の郷土資料室にいた。旅館の主人が言っていた、あの河原で滅ぼされたという戦国の一族について、どうしても確かめたかったのだ。
埃っぽい古い文献を捲ると、あまりにも凄惨な記録が浮かび上がってきた。
『天正〇年、〇〇城落城。城主の一族郎党は、主君の大名に謀反を疑われ、あの河原へ引き立てられた。女子供に至るまで、生きたまま首を撥ねる処刑。それは凄惨を極める地獄のような光景であった』
さらに、インターネットの検索エンジンにいくつかのキーワードを打ち込む。
ネットのオカルト掲示板や地域の伝承をまとめ直した資料には、さらに鳥肌の立つような一節が残されていた。
『大名の軍が城を攻める際、当主の幼き娘が刀を持ち、大名の兵達を次々と斬り伏せ、何十人もの首を刈り取った。最後は無数の槍に貫かれながらも、娘は終始、狂気に満ちた笑みを浮かべたまま絶命した――』
その後、この戦いで多くの兵を失った大名も格上の大国に攻め滅ばされ一族皆殺しの憂き目にあってる。因果応報か時代の必然か。
狂って、敵兵を斬りまくり、笑いながら死んだ娘。
あの河原での惨劇。
あの帰り道、私の車内で響いた、透き通るような少女の笑い声。
鳥肌が止まらなかった。だが同時に、不思議なほどの納得が私の胸を満たしていく。
昔も今も、彼女は安らげる場所を守りたかっただけなのではと。
触らぬ神には祟りなし。
私は静かに資料を閉じ、本棚へと戻した。
急に冷え込んできたように感じられる図書館を後にする。
自動ドアが開き、外の生ぬるい日常の空気が肌を包み込む。私は首筋を一度さすり、いつもの街へと歩き出した。
クスクス
何十人も斬ったら刀なんて刃こぼれするだろ?
武者の霊を前にしても、そんな事を言えるのか? なんだが?
そもそも、侍女も一緒に戦ってたから予備の刀を渡せたんだが?




