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馬鹿と鋏は使いよう

作者: 辛子迷
掲載日:2026/03/16

 言葉は人を殺せるほど強力で、救えないほど無力である。僕を暖かく包み込んでくれた彼女に、僕はナイフを向けていたらしい。それを自覚したとき、僕は妙に納得してしまった。


 昔から小説を読むのが好きだった。毎日放課後は市内の図書館に行って、気になる本を読み漁っていた。夕焼け小焼けが流れると同時に、読んでいた本とその他数冊を変なデザインのトートバッグに入れ、急いで帰った。学校、図書館、自宅の三地点を毎日周回していた。


 こんな小学校生活をしていたが、友達はいた。多かったと言ってもいい。自分で言うのもなんだが、みんなから慕われる優等生みたいなやつだった。成績もよかったし、休み時間のドッジボールではエースだった。なにより、顔も悪くなかった。小学生なんて勉強と運動ができたら、男女どちらからも人気者だった。放課後は図書館に籠っていたため、同級生たちと遊んでいなかったが、そんなことも関係がなくなるくらいの交友関係をつくっていた。


 中学、高校と進学していったが、何かに困ることもなく、淡々と進んでいった。数人と付き合ったりしたが、ほとんどすぐ別れた。三カ月も続いたことはなかった。しかし、小説への熱が冷めることはなかった。習慣だった図書館通いも、頻度は減ったとはいえ続けていたし、自分の脳内で言葉が増えていく感覚が気持ちよかった。大学は今後のことも考えて、偏差値の高いところを受けた。幸い、勉強はある程度頑張っていたおかげか、そこまで詰め込むわけでもなく、なんなく志望校に合格できた。受験勉強に集中するために、読書を一時中断しようとも思ったが、あまりの苦痛に耐えきれなくなり、三日で諦めた。


 幼少期から培った関係構築力は大学でも健在だった。レポートやテストの対策なども、持ち前の交友関係を駆使し、楽に進めていった。ゼミの議論が紛糾すれば、双方の主張を論理的に整理して着地点を示し、サークルの揉め事には、誰もが納得せざるを得ない客観的な回答を処方した。人間関係を上手くやることは、僕にとって苦痛ではなかった。むしろ、自分の力で交友関係を広げていけることが楽しかった。長い間、自分の中に溜め込んでいた言葉という武器を上手く使いこなせている気がした。


 彼女と出会ったのは大学三年の秋だった。就活真っ只中で、流石の僕も少し疲れを感じていた。そんな僕を見かねた友人が誘ってくれたコンパで出会ったのが彼女だった。彼女は都内の女子大に通う二年生で、第一印象では正直あまり賢そうとはいえない外見をしていた。肩の出た露出の多いニットに、短すぎるスカート。一目見て「ああ、中身のないタイプか」と断定したくなるような、軽薄な記号を纏った女子大生だった。でもまあ顔は好みだったので、「ワンチャンありだな」と最低なことを考えていた。


 しかし、酒が進み、周囲が低俗な恋バナや自慢話に興じている最中、ふと彼女が唇を僕の耳に寄せ、小声で囁いた。


「この喧騒、なんだかカフカの城の中にいるみたいで、出口が見えないね」


 彼女としては深い意味はなく言ったつもりだったのだろう。僕が読書が趣味だと言ったのを聞いて、共通の話題になると思ったのだろうか。そんなことはどうでもよかった。記号の中に埋もれていた、ひどく繊細な原石がチラッと光ったみたいだった。その原石がすごく美しいと思った。そして、彼女を印象で決めつけ、低俗な想像をしていたことに罪悪感と、自分に対する嫌悪感を抱いた。同時に、彼女がどうしようもなく欲しくなった。僕は、初めてちゃんと彼女の目を見て話しかけた。


「もし望むなら、僕が君を連れ出してあげようか?」




ーーーーーーーーー




 彼女との交際は極めて順調に進んでいった。彼女は僕が予想した通り、直感的で、詩的な感性の持ち主だった。僕のように、言葉を論理の道具として使うのではなく、移ろいゆく感情を留めるために使うような子。彼女のそばにいることは、心底心地良かった。


 大学卒業後、僕は外資系のコンサルで、論理的な言葉を金に換える日々を送っていた。クライアントの曖昧な悩みを数値とロジックで切り刻む。そんな業種が僕には合っていた。一方で彼女は、僕から一年遅れて、小さな広告会社で、お世辞にも待遇がいいとは言えないながらも、健気に働いていた。そんな環境でも、彼女は相変わらず美しい言葉で見る人聞く人を魅了していた。


 僕が「利益率」や「戦略的優位性」といった硬い石のような言葉を積み上げて城を築いている間に、彼女は「木漏れ日の匂い」や「雨上がりの舗装路」といった、指の間をすり抜ける水のような言葉で世界を彩っていた。僕は、僕には決して真似できない彼女の感性を深く尊敬していた。僕たちの関係は、磁石の両極が引き合うように、互いの欠落を埋め合わせる完璧な調和を保っているはずだった。


 あの日、帰宅した彼女はひどく落ち込んでいた。勤め先の広告会社で、彼女が心血を注いで制作したコピーが、「情緒的すぎて何が言いたいのか伝わらない」と一蹴されたのだという。


「私の言葉は、誰にも届かないのかな」


 彼女はソファに深く沈み込み、今にも消え入りそうな声で、そう呟いた。そんな彼女をみて、彼女を傷つけた無理解な上司への憤りと、彼女を励ましてあげたいという善意が僕を支配した。


「それは君の感性が悪いんじゃない。伝え方の技術の問題だよ」


 僕は彼女の隣に座り、下を向く彼女の背中をさすった。


「たぶん君のコピーには、受け手を説得するための論理が足りていないんだ。例えば、顧客の層をしっかり定義して、それに合わせた実際のデータを使ってみたりしたらどうだろう。そうすれば、君の美しい言葉ももっと『有効な武器』になるんじゃないかな。その上司だってなんの文句も言わなくなるはずだ。馬鹿と鋏は使いよう、って言うだろう?才能という鋏も、正しい使い方を知らなければ自分を傷つけるだけだ。僕も手伝うから、一緒に構成を練り直そう」


 それは、僕にとっての精一杯の愛だった。コンサルタントとしての知見を総動員し、彼女を救うための解決案を提示したつもりだった。


 しかし、彼女は一向に顔をあげなかった。肩を震わせながら、何かを絞り出すように彼女は溢した。


「…道具じゃないの」

「え?」

「私の言葉は、何かを倒すための武器でも、誰かを動かすための道具でもないの!ただ、そこで感じる情景を、誰かと分かち合いたかっただけなの!」


「僕は君のためを思って」

「その『正しさ』が、私を殺すの!」


 彼女はそう叫んで、僕の腕を振りほどき、玄関から飛び出していった。大きな声で叫ぶ彼女の姿は初めてで、一瞬呆然と立ち尽くしてしまった。僕は致命的な何かを間違えたのだと悟った。急いで彼女を追いかけようと、いつもより重いドアを開け、彼女の姿を探した。周りを見渡すと、もう数十メートル先の横断歩道を走る彼女を見つけた。彼女の足が意外と速いことも初めて知った。


 そんな中、彼女の半身がヘッドライトで照らされていることに気づいた。夜の闇を暴力的に破壊する、白濁した光が彼女の細い輪郭を浮き彫りにした。瞬間、僕の思考は凍結した。すべてがスローモーションのように視界に焼き付く。激しいタイヤの摩擦音が、鼓膜を裂く悲鳴のように響いた。彼女は光に射抜かれたように、その場に縫い付けられていた。


「●●●!!!」


 彼女を呼び止めるために叫んだその名前は、ひどく無力だった。




ーーーーーーーーー




 病院の廊下はひどく無機質な風貌をしていた。手術室のランプを見つめながら、僕は自分の無力さに打ちひしがれていた。僕は言葉の専門家を気取っていた。他人を説得し、動かす術を知っていると自惚れていた。けれど今、生死の境を彷徨う彼女に掛けてやれる言葉を、僕は一つも持っていなかった。


 明け方、手術室のランプが消えた。出てきた医師の言葉を聞いて、僕は膝から崩れ落ちそうになった。彼女がまだ生きてくれているという安堵と、いつ目覚めるか分からない不安でいっぱいいっぱいだった。


 それから三日間、僕は彼女の枕元で、ただ彼女の手を握り続けた。僕は、彼女に話しかけ続けた。それは論理的な説明でも、効率的なアドバイスでもなかった。


「昨日は雨が降ったよ。君が言っていた、舗装路が銀色に光る匂いがした。僕は今まで、そんなものに気づきもしなかった」

「カフカを読み返したよ。城には辿り着けなくても、そこにある不条理をただ見つめるだけでいいんだって、君ならそう言う気がして」


 わかっていたはずだった。彼女が言葉をそんな風に使うことがないことぐらい。彼女が入院してからの僕の言葉は、かつての鋭さを失い、ひどく不格好で、支離滅裂だった。けれど、僕は生まれて初めて、彼女のように言葉を道具としてではなく、心の一部として差し出していた。


 彼女の声が聞きたかった。彼女の美しい言葉で満たされたかった。鈴の音色のような優しい言葉を投げかけて欲しかった。彼女を傷つけてしまった僕がそんなことを望むのは、なんとも傲慢な気がしたが、どうしても彼女のそばにいたかった。


 四日目の朝。

 握っていた彼女の指先が、微かに動いた。彼女の瞼がゆっくりと持ち上がり、焦点の定まらない瞳が僕を捉える。僕は息を止め、彼女の唇が動くのを待った。彼女が何を言っても、たとえ僕を拒絶する言葉であっても、すべてを受け入れる覚悟だった。彼女は、乾いた唇を小さく震わせ、掠れた声で囁いた。


「…ねえ、聞こえてたよ。ありがとうね」


 その瞬間、僕の目から熱いものが溢れ出した。その言葉だけで、僕の凍りついた心は溶けていった。


「ごめん、ごめんなぁ…」


 彼女は号泣しながら謝り続ける僕の背中を、弱弱しい手で撫で続けた。そこに言葉はなかった。ただ、暖かく包み込むような愛情だけがあった。


 言葉は人を殺せるほど強力で、救えないほど無力だ。けれど、僕たちはこれからも、この不自由な鋏を使いながら、互いの形を確かめ合っていくのだろう。


 病室の窓から差し込む朝日は、かつてないほどに、ただ、正しかった。

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― 新着の感想 ―
公式企画から伺いました。 素晴らしい作品だと思いました。 言葉の使い方って本当にちょっとしたことで変わりますよね。 相手を傷付けるつもりで放ったわけではない言葉もそういう結果を招くことがあったり、その…
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