【3】 静寂の湖に、最期の晩餐
――天正元年(元亀四年)四月十五日、夕暮れ。
諏訪の空はすでに茜に染まり、風は湖面を薄くなぞっていた。
湖の中央に浮かぶ氷の舞台に、ついにその男が姿を現した。
武田信玄――その影には、二頭の“鬼”を従えて。
準備は、すべて整っていた。
計画の最後の一手が、今、実行されようとしている。
十数名の家臣を引き連れ、信玄は真っ直ぐに石箱の外壁を駆け上がる。
高さ、三間半――見上げるほどの壁も、彼にとっては足場にすぎなかった。
振り返れば、二頭の鬼がゆっくりと氷上を進んでくる。
その動きは鈍重にも見えたが――確かに、確実に、獲物へと迫っていた。
信玄らは一気に壁の頂上へと駆け上がる。
石箱の上には、隙間なく敷き詰められた無数の板――その上を内箱へ向かって踏み込む。
足元の板が、ぎしり、と軋んだ。甲冑の重さが、その罠に重みを加える。
そのときだった。
一頭の鬼が、吼えるように声を上げ、数名の兵とともに、外壁を斜めに駆け上って来た。
もう一頭は、箱の下で、辺りを伺うように立ち止まっていた。
その目は冷たく、光の届かぬ深淵を覗き込んでいるようだった。
そして、すべては動き出す――
静寂と喧騒の狭間で、運命が今、音を立てて落ちようとしていた。
外壁をよじ登った一頭の鬼が、石箱の上から湖全体を見渡す。
そこには、赤備えの武将を先頭に、数百の武田兵が弓を構え、湖を取り囲んでいた。
その異様な光景の中、もう一頭の鬼が、湖畔の氷の上に立ち、小さな金色の瞳をゆっくりと左右に巡らせている。
何かを探るように。何かを読もうとするように。
信玄は、一頭の鬼が外壁に上がったのを視界の端で確認すると、
内箱の中心部へと歩み寄り、掛けてある縄梯子を手に取る。
そして、迷いなく、箱の中へと降りていった。
――その瞬間。
石箱の上を進んでいた鬼の一頭が、内箱に向かって数歩踏み出す。
その足元が、唐突に「ばきり」と裂けた。
木板が砕ける音とともに、鬼の巨体がぐらりと傾いた。
そして、その周囲を囲んでいた数名の兵たちもろとも――
石箱の中、奈落へと落ちていった。
続いて、箱の底から響いてきたのは……兵たちの、断末魔の叫び声だった。
異変に気づいたもう一頭の鬼が、即座に反応し、踏み台を駆け上がって外壁の頂へと躍り出る。
だが、そこにはもう、仲間の姿はなかった。
ただ、木板の裂けた跡と、ぽっかりと開いた穴――
その底から吹き上がる冷気だけが、異様な沈黙を物語っていた。
鬼は、板の割れ目の隙間から、箱の内側を覗き込んだ。
――と、その時だった。
突如として、中央にある内箱の傍の板が、爆ぜるように吹き飛ぶ。
板の下から現れたのは、鋭く尖った右腕――
箱の底に落ちたもう一頭の鬼が、右手を突き上げたのだ。
次の瞬間、その鬼の上半身が、ゆっくりと板の上に姿を現す。
重い体を引き上げながら、内箱の約三メートルの壁を、無理やりよじ登ろうとしている。
「――まさか……!」
下から、赤備えの男――山県昌景が、息を呑んで叫んだ。
本来、上れるはずのない高さ。それでも、鬼は這い上がろうとしていた。
内箱の中にいた信玄は、不意に覗いた鬼の顔に、息を呑んだ。
血に濡れた顔、金色に光る目。
鬼は、先に殺した兵たちの死体をずるずると引きずりながらやって来ると、その亡骸を、鎧ごと内箱の壁際に積み上げて――それを“踏み台”にしていたのだ。
信玄は、思わず目を見張る。
鬼の知能を――完全に、侮っていたのだ。
箱の中に潜んでいた精鋭の武者たちが、反射的に動いた。
壁の上へと、一斉に槍を突き上げた。
しかし――
槍の穂先が、鬼の皮膚に触れた瞬間、まるで岩を打ったかのように弾かれた。
鋭く研ぎ澄まされた刃も、まったく効かなかった。
外で見ていた武田家の軍師が、慌てて石蓋を下ろすように怒鳴った。
だが――もう遅過ぎた。
巨大な石蓋が、ゆっくりと下りて来る――。
鬼は、石壁の上から、内箱の中に飛び降りた。
――ズシンッ!
凄まじい衝撃と共に、箱の中に地鳴りのような震動が走った。
今度、逃げ場を失ったのは信玄の方だった。
取り巻きの兵たちが悲鳴を上げる間もなく、首が次々に宙を舞い、地に落ちる。
そして――信玄の首もまた、鮮やかに斬り落とされた。
鬼は、その首を無造作に口へ運ぶと、一口で飲み込んだ。
そして再び――兵の屍を積み上げ、脱出を試みた。
丁度、上半身が内箱の壁を越えたその時――
四方から吊るされていた石蓋が、ゆっくりと――しかし確実に、重くのしかかるように降りてきた。
鬼が咄嗟に、両腕で頭上の蓋を支えようとしたその瞬間――
「撃てェ―――ッ!!」
外にいた、昌景が怒鳴った。
その声を合図に、石箱を囲んでいた兵たちが、一斉に弓を引き、矢が放たれた。
鋭く放たれた矢の一本が――鬼の脇の下を正確に貫通した。
鬼の呻きが、雷鳴のように箱の中に響いた――
次の瞬間、その巨体は、壁の上からごろりと転がり落ち、再び内箱の中へと消えた。
外壁の上で立ち止まっていた、もう一頭の鬼が――
ゆっくりと下りてくる巨大な石蓋を、じっと見上げていた。
だが次の瞬間、鬼は動き出した。
踏み台を駆け降り、石箱の周囲に設けられた櫓の裏手へ回り込む。
そこでは、数百人の兵たちが石蓋を吊る縄を引いていた。
鬼は、彼らの前に姿を現すや否や、猛然と駆け寄り、轟くような雄叫びを上げた。
「グギャアアアアア――ッ!!」
兵たちは、そのあまりの迫力に、恐怖で顔を引きつらせたまま――
縄を放り出し、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
支えを失った巨大な石蓋が――
重力に任せて、一気に落ちた。
――ガザァンッ!!
その質量が叩きつけられた瞬間、湖面に凄まじい音が轟いた。
氷が軋み、鋭い亀裂が走る。
やがて連鎖するように砕け、巨大な氷塊がいくつも、天に向かって突き上がった。
――バキィィィン!!
何十、何百という兵たちが、割れた氷の裂け目に吸い込まれていく。
そして、その裂け目に――石箱が、ゆっくりと、だが確実に傾きながら、湖へと滑り出した。
仲間を救おうとしたもう一頭の鬼が、外壁に向かって踏み出す。
しかし、その太い足に――一本の縄が絡まった。
それは、石箱を縛るために箱の下へ通してあった縄だった。
不意に足を取られた鬼は、巨体を崩し――
まるで滑り台に引きずり込まれるかのように、石箱の下へと引き込まれていく。
――ズブゥゥン……
冷たく砕けた水面の奥へ――
鬼の上に、巨大な石箱がのしかかるように覆い被さり、
泡と共に、静かに、深く、沈んでいった。
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会場は、しんと静まり返っていた。
あまりの静けさに、回り続けるビデオカメラのモーター音さえ聞こえるほどだった。
「……と、私が描いた“想像の世界”は、ひとまずここまでです」
そう言って時貞は、ふっと息をつくと、正面を向いて、深く一礼した。
次の瞬間、会場のあちこちから、大きなため息が漏れた。
それは、重く張り詰めた時貞の語りに、思わず呼吸を忘れていた人々が――
ふと現実に戻ったかのような、そんなため息だった。




