【3】 怒りの炎、魔王と鬼の契り
―――元亀二年、九月十二日。
(比叡山焼き討ちの日)
信長は家臣に呼ばれ、比叡山の洞窟へと足を踏み入れた。
中は広く、鼻を突くような異臭が漂っていた。
湿った空気に松明の灯りが揺れ、壁の影が怪しくうごめく。
やがて洞窟の中央に、大きな縦穴が現れる。
その底から――低く濁った、呻きとも唸りともつかぬ声が響き上がってきた。
家臣は黙したまま、その穴を指差す。
信長は眉をひそめつつ、手にした松明を穴へと落とした。
炎は暗闇を舐め、深い底を赤く照らす。
――そこに、二頭の巨大な生き物がいた。
呻き声を漏らしながら身をよじり、こちらを仰ぎ見ている。
その顔を見た瞬間、信長は息を呑んだ。
それは、名だたる絵師が描いた**「鬼」**の貌、そのものだった。
信長は、上から暫く鬼の顔を眺めていた。
そして、話しかけた。不思議と恐怖心は無かった。
話しかけた信長は驚いた―――鬼が自分の言葉を理解している。
信長は、鬼とある約束を交わした。
信長の提案は、鬼にとって――まさに命冥加であった。
鬼は、信長に向かって、《《比叡山の僧侶を皆殺しにしたい》》と――鬼の目は、そう言っていた。
言葉は発しなかったが、信長にははっきりとその意志が伝わってきた。
信長は、しばし無言で考え込んだ。
そして信長は、鬼が棲む暗い穴へと、たったひとり、縄梯子をつたって静かに降りていった。
その中は――人間の屍で溢れていた。
強烈な腐臭が満ち、足元の感触さえ生々しい。
信長は思わず手で口元を覆った。
骨の山の中に、まだ肉の残る手や足が転がっている。
耐えきれず、信長はその場に嘔吐した。
顔を上げたとき、視界の隅に――幼い少女の生首が転がっているのが見えた。
よく目を凝らすと、同じような遺体がいくつも、奥に折り重なっていた。
比叡山の僧侶たちは、いたいけな少女たちを弄び、殺し、この穴へ投げ捨てていたのだ。
鬼は、それら亡骸を食らい、生きながらえていた。
僧侶たちは、鬼のいるこの穴の上から槍で突き、糞尿を浴びせかけ、弄んだ。
だが、殺しはしなかった。
彼らにとって鬼は、不要になった死体を処理する“掃除人”だったのだ。
信長は、こみ上げる怒りを抑えきれず、ゆっくりと顔を上げた。
そして、鬼に向かって命じた――
「僧侶どもを、殺せ。……皆殺しにしろ!!」
当時、仏僧たちの所業は、偽善と汚行にまみれていた。
しかし、呪詛や調伏の力が恐ろしく、僧徒の横暴に誰も手を出すことができなかった。
穴を出た信長の脳裏には、あの幼気な少女の生首――その哀しげな表情が焼きついて離れなかった。
このとき信長は、寺院の僧侶たちを討つことを、はっきりと心に決めた。
仏僧こそが、この世で最も深い闇だ――そう感じたのである。
そして、この日を境に、信長は自らを《《第六天魔王》》と名乗り始めた。
その怒りの炎は、やがて高野聖へ、そして本願寺へと燃え広がっていくことになる。
信長が洞窟を出ると、二頭の鬼が外で暴れ回っていた。
彼はすぐさま兵に命じた――「これを見た者は皆殺しにせよ」と。口封じのためである。
自軍の兵には固く他言を禁じ、もし口にした者があれば、即刻斬首とした。
やがて、あたり一面に首を斬られた僧侶たちの死体が転がり、無惨な光景が広がっていく。
信長は、それらすべてを焼き払うように命じた。
信長の比叡山の焼き討ち――それは、鬼の存在を知っている者の口封じと、証拠隠滅であった。
鬼は、高度な知能を備えていた。
いつから存在し、誰によって、“地球”へ連れて来られたのか――それは、信長にも分からなかった。
信長は城へ戻ると、二頭の鬼に命じた。
「武田の領地を荒らせ。ただし、人目に付きすぎるな」
鬼たちは命令通り、各地で武田家の荒武者を次々に斬り伏せていった。
逃げる者も容赦なく追いかけ、殺した。
やがて武田の領内では、いつしか噂が広がり始めた。
そしてそれは、いつしか、“大きな首なし武者――獄禍”になっていった。
鬼は、胸の前に頭がある為、正面に回らなければ、それが“首を持つ者”だとは分からなかった。
だが、正面に立った者は――すべて、殺された。
唯一、後ろから目撃した者たちが、鬼を、大きな首無し武者と呼んだのだ。
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「……今後、“首無し武者・獄禍”についても、“鬼”として話を進めさせていただきます」
そう前置きした時貞の表情には、どこか陰りが差していた。
戦国の覇者が直面した、あまりに凄惨な出来事――
それは、まるで天が退屈しのぎに放った――軽い気持ちの、戯れ事だったのかもしれない。
その重さが、会場の空気を凍りつかせていた。
誰ひとり、言葉を発する者はいなかった。
時貞は、遠い昔の“おとぎ話”を、なおも語り続けた。
「武田領内で、二頭の鬼が暴れ回っていた。
そして名だたる将たちの首が、次々と宙を舞った。
武田家の侍たちは、鉄砲で撃ち、刀で斬り、槍で突き、弓で射抜いた。
しかし、鬼にはまったく効き目がなかった。
火矢を放っても、怪物は燃えることすらなかった。
そんなある日――鬼の一体が、信長の目の前で、切り捨てた武田家の重臣の、その生首を口から“吐き出して”見せた。
それを見た信長は、ついに『信玄の首を、取ってこい』と命じます」
場内が静まり返る中、時貞はゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「信長はそれまで、鬼を信玄の暗殺には使おうとしませんでした。
なぜなら、戦場でもなく、誰の目にも触れぬ場所で信玄を殺したとしても――
武田家は影武者を使って、信玄が健在であると装うことができた。
それでは、何の意味もなさないのです。
しかし――本物の“首”さえ手に入れば、話は別です。
その首を掲げ、『信玄、討ち取ったり!』と叫べば、それでよい。
そして、ついに信長は命じました。
『信玄の首を、取ってこい』――と」
時貞は、ふっと目を細めて顔を上げた。
その口元には、かすかな笑みすら浮かんでいた。
「……まあ、最後のあたりは、私自身の想像も含まれていますが」
彼は小さく肩をすくめ、会場を見渡した。
「事実として残っているのは――比叡山の焼き討ち。
そして、その頃から、信長が“第六天魔王”を名乗り始めた、ということだけです。
その背後に“鬼”がいたかどうかは、もう誰にも分かりません」
会場に沈黙が落ちた。
まるで遠い昔の怨嗟が、なおもそこに息づいているかのようだった。
杉山課長は、今語られた物語の余韻に沈みながら、
この話がどう“あの石箱”へと繋がっていくのかをじっと考えていた。
その時だった。
岩城部長が、苛立たしげに椅子を軋ませ、ついに耐えかねたように口を開いた。
「あなたの意図は分からないが、
まるで戯言じゃないか……この場を遊び場とでも思っているのかね?
いま議論しているのは、“あの石箱”と、“信玄の首”だ。
なぜ、そこに“織田信長”が出てこなければならんのだ?」
時貞は、岩城を一瞥すると、静かに視線を前へ戻し、落ち着いた口調で続けた。
「信玄は、三河攻略のために、長篠城に陣を敷いていたときのことです。
岐阜城に潜ませていた間者から、密書が届きました。
――“二頭の鬼が放たれた。狙いは、貴殿の首である”と。
その報せを受けた信玄は、即座に全軍へ撤退を命じた。
城は、いつでも落とせる。だが――“鬼”には、刀も鉄砲も通じない。
信玄は、それを誰よりも理解していた。彼は一途……」
「……あなたね」
岩城が、堪えきれずに口を挟んだ。
頬に青筋が浮かび――苛立ちはもはや隠しようもない。
「これだけ多くの人が、忙しい時間を割いて集まっているんだ。
空想のような話を、延々と聞かされるのはもううんざりだ。
時間の無駄だ。
先に――結論を言いなさい!」
だが、時貞は動じない。
静かに呼吸を整えると、真っ直ぐに前を見つめた。
その視線の先には、まだ誰も辿り着いていない“真実”が、静かに横たわっていた。
と、その空気を切り裂くように――
「うるさいんだよ、あんた。少しは黙って聞いてらんないのかよ」
龍信が鋭く睨みながら言い放った。
「なにをっ……!」
岩城が拳を握りかけたその時、さらにもう一声。
「そうだぞぃ。うるさいぞぃ。チョビおやじ、うるさいぞぃ」
一織の“ぞぃ”三連発が炸裂した。
まるで緊張の糸を切るように、会場のあちこちから小さく、堪えきれない笑いが漏れ始める。
時貞は俯き、静かに頭を振った。
「あんたの説明の時、教授は静かに聞いてただろ?
――今度は、あんたが黙って聞く番だろが」
龍信が鋭く言い放つ。
岩城は、唇を歪めたまま無言で立ち上がり、テーブルを叩いて会場の出口へと歩きかけた――
その瞬間、静けさを破る一声が響きわたった。
「……ちょっと待ちなさい」
低く、重く、それでいて威厳に満ちた声だった。
声の主は、奥に座っていた水篠会長だった。
室内に満ちていた空気が、一瞬にして引き締まる。
いつもの柔らかな笑みは、そこにはなかった。
「そこの――元気なお嬢さんの言うとおりです」
会長の声は、静かに、しかし確かに通る。
「岩城くん。座りなさい。そして、少し静かに聞きなさい」
「……はっ」
岩城は、思わず背筋を伸ばし、肩をすぼめて席へと戻った。
「神童教授、申し訳ない」
水篠会長は静かに頭を下げる。
「時間など、気にせんでよろしい。我々が聞きたいのは、ただ一つ――
“あの箱”の真相。それだけじゃ。どうぞ、話を続けてください」
その穏やかな一礼に、時貞も深く頭を下げた。
そして、ふと左に視線を向ける。
そこには、一織がいた。
彼女は微笑みながら、そっと小さなピースサインを掲げていた。
岩城はというと、うつむいたまま――
まるで苦虫を噛み潰したような表情で、拳を強く握りしめていた。




