【1】 仮説の綻び、静かなる反撃
碧と一織のほかに、岩城部長の話に異を唱える者はひとりもいなかった。
前回の対戦時に、威勢の良かった鈴木正は、今回は姿を見せていない。
岩城が、彼に急な出張を命じ、参加者リストから外していたのだ。
杉山課長は、後方に座る水篠会長の様子をうかがいながら、声を発した。
「……では、岩城部長の説明は以上ということで。続いて――神童教授、お願いいたします」
促されるようにして、時貞が静かに立ち上がる。
会議室の空気が、かすかにざわついた。
いつも高飛車でプライドの高い岩城を、前回、完膚なきまでに論破した――“あの男”の登壇。
その姿を、どこか期待を込めたまなざしが部屋中から見つめている。
水篠会長もまた、静かな興味を隠そうとはしていなかった。
――今回は、果たしてどんな“夢物語”を聞かせてくれるのだろうか。
彼の穏やかな微笑の奥には、抑えきれぬ高鳴る鼓動が、静かに揺れていた。
そんな空気の中、時貞は無言のまま壇上へと歩を進めた。
岩城は軽く会場に一礼すると、壇を降り、時貞の席とは反対側の椅子に静かに腰を下ろした。
壇上に立った時貞が、襟元にピンマイクをつけながらふと顔を上げると、真正面の席に座る水篠会長と視線が合った。
その表情は、まるで自慢の婿養子でも見るかのような穏やかさに満ちていた。
時貞もまた、静かに微笑み返し、軽く頭を下げた。
――そして、会場の空気が、じわじわと緊張に満ちていく中。
「それでは、神童教授。どうぞ、始めてください」
進行役の杉山課長が、やや身を乗り出して促した。
その声に、時貞はわずかに視線を左へと向けた。
そこには、一織、碧、龍信、源次、翔太の姿があり、全員が静かに、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「私の見解を述べる前に、ひとつだけ――あらかじめお断りしておきたいことがあります」
壇上の時貞はそう言うと、会場をゆっくりと見渡し、いつになく慎重な面持ちで、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「これからお話しする内容は、現時点で明らかになっている断片的な事実――文献、映像、そして現場の状況――それらをもとに、私なりに推測を重ね、ひとつの仮説として組み立てたものです。
つまり、これからお話しすることは、あくまで私個人の推論に過ぎず、事実とは大きく異なっている可能性も十分にあります。
その点をご理解いただいた上で、お聞きいただければと思います」
――会場は静まり返ったまま、誰一人として声を上げなかった。
時貞の声だけが、確かな重みと共に響いていた。
「まず、岩城部長の説明についてですが――背景となる部分に関しては、私の考えともおおむね一致しています。
現時点で、岩城部長の説を否定できるような材料も、私は持ち合わせていません」
そう述べて時貞は、そこで一度言葉を切り、わずかに表情を和らげた。
「ただ、いくつか……説明の中で、どうにも引っかかった点がありました。
その点について、まず確認させていただきたい」
そう言って、彼は進行役の杉山課長へと視線を送った。
「もっとも、岩城部長に逐一お答えいただく必要はありません。あくまで、私自身の疑問として――
話を進める上での、前提の整理に過ぎませんので」
そう前置きすると、時貞は穏やかに微笑んだ。
「ええ、どうぞ」
杉山課長は岩城部長に軽く目配せし、それから時貞に視線を戻しつつ、右手を差し出して促した。
「ありがとうございます。ではまず――岩城部長は先ほど、時間的な点から見て、あの大きな石箱は事前に用意されていたのではないか、とおっしゃいましたね」
そう言いながら、時貞は静かに岩城の方へ視線を向けた。
岩城は、その視線を正面から受け止め、無言のまま軽く頷いた。
――岩城は、自分の説明中、神童教授が妙に静かだったことに違和感を覚えていた。
だが今になって、その理由がはっきりと分かった。
先ほど自分が述べた内容と、神童教授の考えがあまりにも似通っていたのだ。
とはいえ、教授としては、それに無条件で同意するわけにはいかない。
だからこそ、彼は自らの理論の中で、まだ解き明かせていない部分を“問い”という形で先に投げかける。
そして、相手から納得のいく答えが返ってくれば、それを自身の考えに取り入れ、肉付けし、完成させる。
――“良くも考えたものだ”と、岩城部長は薄笑いを浮かべた。
「信玄は、引き返す途中で自らの死を予感し、息子の勝頼を呼んで遺言を残した。そして、自らの遺骸を諏訪湖に沈めよと命じた……そうですね」
時貞がそう問いかけると、岩城は静かに頷いた。
(……見え透いた手を)
その胸中を隠すように、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「死期を悟った信玄が、勝頼を呼び、遺言を残した――それ自体は理解できます。
ですが、どうでしょう。信玄がその死の間際に、自らの遺骸を湖に沈めよと命じるなど、いったい誰が予想できたでしょうか。
もし仮に、『火葬せよ』と一言でも言い残していたとしたら、あの巨大な石棺は、まるで意味をなさなくなってしまう」
時貞はそこでいったん言葉を止めた。
しかし、岩城部長からの反論は、なかった。
さらにしばし間を置いた――だが、岩城部長は沈黙を崩さなかった。
時貞は、静かに言葉を継いだ。
「岩城部長は、信玄が重い病を患っており、主治医はすでに死期の近さを察していたのではないか……そうおっしゃっていましたね」
視線を岩城へ向けたが、その表情に変化は見られなかった。
「もし、自らが重い病にあると知っていたなら――信玄は戦に出るどころか、むしろ足手まといとなり、最悪の場合、全軍撤退の引き金にさえなりかねません。
そんな状況で、あの冷静かつ周到な戦略家・信玄が、自ら出陣するなど、私には到底考えられないのです」
時貞は一度言葉を切り、わずかに声の調子を強めて続けた。
「そして、岩城部長の分析の根拠になっていると思われるのが――元亀四年四月十六日、信玄の葬儀直後に、信玄の侍医とされる御宿監物友綱が、小山田信茂に宛てて送った書状です。その中には、こう記されています。
『肺肝により、病患たちまち腹心に萌し安んぜざること切るなり。倉公華佗が術を尽し、君臣佐使の薬を用ふると雖も、業病更に癒えず。追日病枕に沈む』
……たとえこの記述が事実であったとしても、主治医が“死を宣告”したのは、信玄が亡くなった十二日の、四日後になります。
つまりこれは、病状の“事前経過報告”というより、むしろ“死亡報告”に近いものです。
とても、数か月も前から病状を正確に把握していたとは言い難い。
戦乱が続くその頃の、医学の正確性は測りかねますが……
息を引き取る間際でもない“数ヶ月前”に、絶対的主君の死を予告するなど、
たとえ主治医であっても、進言できたとは到底思えません。
もしそれが外れでもしたら、自分の首が飛ぶだけでは済まない――
戦国時代とは、そういう時代です」
時貞は語り終えると、静かに岩城へ視線を送った。
だが、岩城は微動だにせず、答えるそぶりすら見せなかった。
――ここで応じるのは、教授の術中にはまることになる。
そう判断した彼は、あえて沈黙という選択を取ったのである。
「岩城部長の説明が、明確な答えとして結論づけられていれば、私としては自分の説明を省くことができる――正直、そうなることを少なからず期待していました。
ですが……岩城部長の“パズルのピース”は、憶測による膨らみがあまりにも大きく、事実で埋めたあとの“空白”には、どうしても収まりきらないのです。
これまでに述べてきたように、信玄の死を事前に知り、数か月も前から石棺を用意しておくというのは、現実的には非常に難しいことだと思います。
――けれど、時として、現実は想像もつかないような出来事を引き起こします。
ですから、これは岩城部長の説明そのものを否定する意図ではありません。
あくまで私個人としては――可能性としては低いのではないかと、考えているにすぎません」
時貞はそう言って、まっすぐに岩城を見据えた。
だが岩城は、「相手にするつもりはない」とでも言いたげな無表情で、ポケットから煙草を取り出した。
時貞は黙ったまま、その仕草をじっと見つめていた。岩城が火を点けたとき、彼の目線がふとこちらを向いた。
「……何か?」
怪訝そうにそう言われ、時貞はハッと我に返るように顔を上げた。
「あなたは最初に、“答える必要はない”とおっしゃいましたよね。それを今になって、私に説明しろと?」
「あ、いえ……」
時貞は小さく首を振った。
てっきり反論が返ってくるものと思い込んでいただけに、不意を突かれた時貞は、少し面食らってしまった。
岩城もまた、営業の現場で鍛え抜かれた百戦錬磨の男。そう簡単に挑発には乗ってこない。
時貞は視線を正面に戻し、一つ、大きく息を吸い込む。
「まだいくつか疑問は残っていますが、このあたりで、私の説明に移らせていただきます」
岩城部長に答える意志がない以上、これ以上問いを重ねても、時間の無駄だった。




