【3】 先手の論理、沈黙する教授
時貞が入院して五日が過ぎた頃、一つの動きがあった。
水篠物産の営業部長・岩城雅也――かつて大学のドクター時代に考古学を学んでいた男が、「自分にも調査を手伝わせてほしい」と申し出てきたのだ。
水篠会長も、それを退ける理由は特になかった。ただし、「神童教授本人の了承を得ること」という一言を添えて、慎重な対応を命じた。
その話を聞いた時貞は、まるで気にする様子もなく、にこやかに頷いた。
「どうぞどうぞ。役に立つかわかりませんが」と笑顔で、自身の調査資料をすべてプリンターで出力し、水篠物産の代理人に手渡した。
すでに彼の中では、石箱にまつわる仮説は、ほぼ骨格を成していた。
あとは、それをどう語るか――“順番”だけの問題だった。
*
――会議当日。
水篠物産本社の最上階、大会議室には、碧を除く参加者がすでに集まっていた。
出席者の紹介が一通り終わり、水篠会長の簡潔な挨拶が始まろうとしたその時――
スタッフに案内された碧が、わずかに遅れて姿を現した。
室内をざっと見渡し、軽く会釈をしてから、彼女は静かに龍信の隣へと腰を下ろす。
そのすぐ先、一織の隣に座る人物に目を留め、思わず小声でつぶやいた。
「……あれ? 教授、髪、切ったんだ」
時貞は無言で頷き、柔らかな微笑を返した。
前日、一織から「身だしなみにも少しは気を使って」と厳しく言われたため、仕方なく彼女の専属の有名なスタイリストを病室に呼び、散髪してもらっていたのだ。
もっとも、服装はいつも通り。ジーンズにTシャツ、その上に薄手のパーカーという、まるで「今さっき皇居の周りをジョギングしてきました」とでもいうような、飾り気のないラフなスタイルだった。
やがて水篠会長の挨拶が終わり、いよいよ本題――調査報告へと移った。
会議室の隅では、チャンネル9のテレビカメラが静かに回っている。
「ではまず、岩城部長のご説明をお願いしたいと思います。神童教授、よろしいでしょうか?」
進行役の水篠物産営業部・杉山和宏課長がそう問いかけ、視線が自然と時貞へと向けられる。
時貞はわずかに笑みを浮かべ、静かに頷いた。
“先に説明をしたい”と申し出たのは、他ならぬ岩城自身である。
岩城はゆっくりと立ち上がり、壇上にあるホワイトボードの前へと歩を進めた。
U字型に配置された会議机。中央にはスライド映写機が据えられ、壇の脇には進行役の杉山が着席している。
底辺中央の席には、水篠会長とチャンネル9の一条常務が並んで座っていた。
そして左手の壁際には、例の“旧家の土蔵”から出土した――胸の高さほどもある、風化した石の箱が鎮座していた。
まるで、これから明かされようとしている真相を、ただ静かに見届けているかのようだった。
「では最初に、私の調査報告をさせていただきます」
壇上に立った岩城は、落ち着いた口調で語り始める。
「今回の報告は、大きく二つの主題に分かれます。
ひとつは、あの石箱が何であり、なぜ諏訪湖に沈められたのか。
もうひとつは――なぜその箱の中に、武田信玄の首を飲み込んだ“怪物”が入っていたのか、という点です」
そこで一拍置き、岩城は会場を見渡した。
左手の席へ視線を送ると、そこには神童時貞が静かに座っていた。
視線が交差する。時貞は穏やかに微笑んだ。
その笑みに、岩城は思わず顔をしかめ、すぐに目を逸らした。
――その微笑が、どうにも気に入らなかった。
前回の調査報告で味わった屈辱――
あれは岩城にとって、未だ消えぬ痛みであり、心の奥に刺さったままの棘だった。
だからこそ、今回こそが“雪辱の舞台”だった。
あの石箱の正体については、結論はすでに見えていた。
導き出される答えは、どう考えてもひとつしかない。
神童教授の見解も、おそらく同じはず――それは岩城にも分かっていた。
だからこそ、彼より先にその結論を口にすることに意味がある。
自分が話した後に、「自分も同じ見解です」と彼が賛同すれば、それでいい。
先に辿り着いたのは自分だ――その事実こそが、教授を超えたという、揺るぎない証明になるのだ。
だが、逆は許されない。
先に教授に発表されてしまうと、その愚かな役回りを自分が演じねばならない――――それは、敗北以上の屈辱だった。
プライドの高い岩城にとって、それだけは何としても避けねばならないことだった。
「ではまず、石箱の正体と沈められた理由についてお話しします」
岩城は一呼吸おいて、断言した。
「結論から申し上げます。あの石箱を諏訪湖に沈めたのは、《《武田信玄の遺言》》によるものであり――そして、あれは間違いなく、信玄自身の“石棺”です」
一瞬、会場に静かなざわめきが広がった。
「ああやっぱり」――そんな声が、小さく交わされる。
岩城はその反応に目を細め、左手の神童教授をもう一度見やる。
が、彼は微動だにせず、ただ静かに俯いていた。
その表情からは、何一つ読み取れなかった。
(……何を考えてやがる)
岩城は小さく舌打ちし、姿勢を正すと、話を続けた。
「天正元年(1573年)二月に野田城を落とした武田軍は、その勢いのまま、織田・徳川領へと破竹の進軍を続けていました。
ところが、次に落とした長篠城に拠点を築き、三河進攻を目前にした三月頃、信玄は突如として軍を撤退させたのです。
その理由は、長らく議論されてきましたが――私は、病の悪化によるものと見ています。
かねてより囁かれていた通り、病名は結核、あるいは癌だったと推定されます」
(……それなら知ってるぞぃ)
一織は心の中で小さく呟いた。
「病の進行を悟った信玄は、撤退を命じました。
そして帰路の途中、自らの死期を悟り、息子・勝頼を呼んで遺言を遺します」
岩城は壇上から視線を巡らせた。
「それは、死後三年間は喪に伏し、世に知らせぬこと。
そして、自らの遺骸を石棺に納め、諏訪湖の底へ沈めよという命でした。
勝頼はこれに従い、父の遺体を石棺に納めて諏訪湖に沈めた……私はそう推論します」
そう語ると、岩城は壇上のグラスを手に取り、水をひと口飲んだ。
「……よく分かりました。ご説明、ありがとうございます」
進行役の杉山課長が、満足そうに頷いた。
新人時代に岩城の部下だった彼は、少し誇らしげに相槌を打った。
「それで、あの大きな石箱を湖上に運び、信玄の亡骸を沈め――」
その言葉をさえぎるように、鋭い声が会場に飛んだ。
「ちょっと、質問してもいいですか?」
静まり返った空気を切り裂いたのは、龍信の隣に座っていた白鳥碧だった。




