【1】 道化師の憂鬱と退院の祝福へ
――一週間後。
天井は高く、壁は薄い金箔模様に縁取られ、枕元には季節の花が飾られている。
シーツは真っ白で柔らかく、カーテンは絹のような手触り。
――まるで高級ホテルのスイートルームのような、そんな贅沢な病室のベッドの上で、時貞は横になっていた。
彼は、白衣の天使の腰あたりを見ながら、妙にしみじみとした声でつぶやいた。
「あれっ、あれれれ!……そういえば、君のお尻、あの砂漠で見た、お月様と瓜二つじゃないか。ああ、奇遇だなぁ。君のまあるいお尻を抱かせてあげれば、きっとロレンスも大喜びするな」
「ロレンスが……ほんとうに?」
「ほんとほんと」
白衣の天使は、少しだけ考えこむと、コクリと頷いて立ち上がった。
「いいわ。……ロレンスが喜んでくれるのなら」
そう言って、寝ている時貞の前に背を向け、そっとお尻を突き出した。
だが、次の瞬間。
「――あー、だめだー」
時貞が急に素っ気なく言った。
「えっ……?」
「ちょっと……疲れたから」
「え?」
「悪いけど、外に出てもらえる」
時貞は、そう言ってベッドの上で背中を向けた。
白衣の天使は戸惑ったように問いかけた。
「わたし、何か……気に障ることを……?」
「ちがう。君のせいじゃない。ただ……本当に、疲れただけだから」
その声はどこか、苛立ちと、妙に寂しげな響きを帯びていた。
天使は、二、三度まばたきをしてから静かに歩き出し、そっとドアを開けた。
振り返るも、時貞はまだベッドの中で背を向けたままだった。
肩を落としながら、白衣の天使は部屋を出て行った。
時貞は、面白くなかった。
――自分が、大学の偉い教授であることは、誰もが知っている。
父親が有名な考古学者で、実家は裕福。そんなプロフィールも、すっかり露見していた。
だから、どんなに突拍子もない冗談を言っても、誰も笑わない。
むしろ皆、真顔でうなずいて、きっちり納得してしまうのだ。
相手の目の奥に見えるのは、淡い期待ばかり。
イケメンで、金持ちで、地位もある――そんな大学教授と結婚できれば、玉の輿かもしれない。
そんな夢を見ている女たちの視線に、時貞は、どこか疲れていた。
――ちがう。そういうのは、ちがうんだ。
「バカ、何言ってんのよ!」
「ちょっと、いい加減にしなさい!」
そういうノリのいいツッコミが、欲しかった。
ここでは誰もが、時貞のことを「頭の良い、偉い人」だと知っている。
そして何より――それこそが、道化を演じる彼にとって、いちばんの不幸だった。
――時貞が、ふと首を傾げた。
白衣の天使が出て行ったはずなのに、ドアの閉まる音が聞こえなかった。
《何か、嫌な予感がする》。
あの怪物と初めて対峙したときと、どこか似た胸騒ぎだった。
気になって振り返った瞬間――時貞の顔から血の気が引いた。
「シ、ローくん……」
そこには、怪物よりも恐ろしい表情をした一織が、ドアに手を添えたまま、静かに立っていた。
「蒼い顔して、どうしたのよ。まさかさっき出て行った看護婦さんに、何か悪いことでもした?」
「めっ、滅相もない!悪いことなんて、してない!まったくしてない!」
枕の上で必死に首を振る時貞に向かって、一織は意地の悪い笑みを浮かべる。
「聞いてたわよ。――ぜんぶ、ね」
その言葉と同時に、彼女は顎で廊下を指した。
そこから、ニヤニヤ顔の碧と龍信が顔をのぞかせた。
三人の視線が一斉に時貞に注がれる。
「外で聞かせてもらったわよ。左腕の名前」
碧が、わざとらしく意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
左腕は三角巾で吊られ、左足もわずかに引きずっている。
「おれの左腕にも“ロレンス”をつけてくれないか? ……“ジャッカル”の方でもいいけどな」
龍信が冗談めかして言いながら、自分の失った左腕のあたりを、からかうように示した。
右手に杖をついていたが、歩き方はまだ少しぎこちない。
病院嫌いの彼は、医者の静止も聞かず、翌日には退院していた。
龍信は、ジャッカルの話を碧から聞いて知っていた。
暇を持て余していた入院中、何度か碧の方から電話をかけていたらしい。
その碧も今日、ようやく退院することになっていた。
「人の話を立ち聞きするなんて、酷いじゃないか。何で途中で入って来なかったんだよ」
時貞がベッドに寝たまま、一織に顔を向けた。口が、少し尖っている。
「だって、素敵なお話だったんだもん。それに、いつもみたいに邪魔をして、四郎おじさんが結婚できなくなったりしたら……わたし、恨まれちゃうでしょ?」
一織は自分を指差し、どこかしらとぼけた顔で言った。
時貞は一織から視線を外して、碧へと向けた。
「えっ、わ、わたしは入ろうとしたのよ?
入ってまた、とっちめてやろうと……でも、一織ちゃんが止めるから……」
と、碧が弁解するように言う。目が泳いでいた。
「おれは知らんぞ」
龍信が、自分に火の粉が飛んで来る前に、首を振った。
――だが、この三人が、ドアの外で話を聞いて、ヘラヘラ笑っていたのは確かだ。
時貞はそれが気に入らなかった。
おそらく龍信だって、壁にもたれながら、内心はしっかり楽しんでいたに違いない。
「そんなことより、今日は碧さんが退院なのよ。それで、四郎のところに挨拶に来たの」
と、一織が話を無理やり切り替えた。
時貞はまだ、少し拗ねている。
「……そうなの。今日退院するから、お別れの挨拶に」
と、碧が少し寂しそうに言った。
彼女も、同じ病棟に入院していた。
そして、ほぼ毎日のように時貞の病室へ遊びに来ていた。
今日、退院することを――もちろん、時貞も知っていた。
時貞は、ふと顔をベッドの脇にある大きな窓の方へ向けた。
そういえば――今日は朝から、やけに外が騒がしかった気がする。
何気なく、指先でレースのカーテンの隙間を広げる。
するとその瞬間、視界に飛び込んできたのは――
ごった返す人、人、人。
下の道路や駐車場には、黒山の人だかり。
ファンに報道陣、警備員らしき男たちがひしめき合っていた。
(……なるほど)
時貞は目を細めて、しばらくその人波を眺めた。
今や世間の注目を集める人気レポーター――碧の退院。
当然のように、これだけの騒ぎになるわけだ。
もっとも、碧や時貞が入院していたこの病棟は、報道陣の立ち入りが厳しく規制されている。
ここへ入れるのは、病院関係者と入院患者だけ。外の喧騒は、この静かな一角には届かない。
「でも、信じられないな。
わたしが教授と初めて会って、助手の人と間違えたのが……まだ一週間前だなんて」
碧が懐かしそうに、あの始まりの日を振り返った。
時貞は、窓の外から目を戻すと、振り向いて微かに笑った。
「そうだったよね。
あの時、四郎が……ほら、あのカブト虫と遊んでて――」
「……あー、そうそう、あったね」
一織の言葉に、碧が頷く。
「四郎、あのカブト虫、名前なんだっけ?」
時貞は目を伏せて、ぽつりと答えた。
「……忘れた」
「うわっ、やだそういうの。
思い出せそうで思い出せないやつ! ……碧さん、覚えてない?」
「えっとぉ……確か……“どや松くん”?」
「それそれ! 最後に“松”がついたのは間違いない!」
一織が勢いよく頷くも、碧はまだ首を捻っている。
部屋の入り口の壁にもたれていた龍信が、火の点いていない煙草をくわえたまま、静かに笑っていた。
「……ちょび松くん? いや違う……こぶ松くん? うーん……違うなぁ……」
一織が両手を頬に当てて悩んでいる。
時貞はその様子を眺めながら、何も言わなかった。
本当は知っている。ちゃんと、覚えている。
――でも、言わない。
さっきの“盗み聞き事件”の、ほんのささやかな、仕返しだった。
「それよりも、源さんは?」
時貞がふと話題を変えて、龍信の方を見た。
「ああ、あと一、二週間で退院できるってさ」
「うそぉー!」
時貞が目を丸くした。
「だって、担ぎ込まれたときは肋骨が折れて、内臓破裂で――って、相当な重傷だったって聞いたけど」
源次のことを思い出しながら、時貞は言った。
ここに入院してから、一度も彼と顔を合わせていない。
それもそのはず――源次は集中治療室で、面会謝絶だったのだ。
「ほんと、俺も信じられないくらいさ。
でも先生が言ってた。
源さんの身体はとにかく頑丈で、回復力も異常なほど早いって。……“あの人は化け物だ”ってさ」
龍信が苦笑交じりに言うと、
「怪物に負けないくらいタフよね、源さん。……でも、目はとっても優しくて」
碧も、あのダンディな口髭の源次の顔を思い出し、ほっとしたように微笑んだ。
「いや、タフさなら……ぜんぜんきみも負けて……」
「……なに?」
碧の目がキッと鋭くなる。
龍信は、言いかけた言葉をそっと飲み込んだ。
一方――
(……そよ松くん? いや……しとね松? ん~、分かんないぞい……)
他人の会話もそっちのけで、一人で悩み続ける、十九歳の“こだわり娘”がそこにはいた。




