【4】 終焉の現場、炎と鉄と小指の爪
龍信は顔を上げた。
すぐ右手、一メートルほど先――怪物の巨大な顔が、そこにあった。
怪物は、石壁を背に、無数の鉄筋に囲まれるようにして立っていた。
鋭く尖った右腕は、まるで「やあ」と手を上げたかのように、龍信とは反対側へ突き出され、鉄骨に挟まれて動かない。
閉じていた金色の瞳が――ゆっくりと開いた。
……生きていた。
龍信は、わずかに息を呑んだ。
怪物は片目を開けると、自身の状況を確認するように動かない首をわずかに動かす。
唯一残された左目も、脇腹も――無傷。
そして――口角が、わずかに上がった。
龍信には、それが“笑った”ように見えた。
だが、動けるわけではなかった。
鉄筋のほとんどは、怪物の異様に堅い外皮に弾かれ、滑るようにして背後の石壁へめり込んでいる。
身体の各所を交差するように囲まれた怪物は、ほぼ身動きが取れない状態にあった。
怪物は、上がったままの右腕をなんとか引き抜こうと、必死にもがいていた。
だが、龍信には――もはや為す術がなかった。
足が抜けない。
動こうにも、右脚を貫通した鉄筋が、まるで檻の杭のように彼をその場に縫い留めている。
加えて、頼みの“武器”――怪物の腕も、すでに投げ捨ててしまっていた。
――グギャゥオー!!!!
怪物が、怒りに任せて暴れ狂う。
けれど、身体を包囲するようにして石壁へ突き刺さっている鉄筋の本数は、十や二十ではない。
まるで、鉄と石で組まれた牢獄のように、怪物の全身を縛りつけていた。
龍信は周囲を見渡した。
源次は瀕死、翔太も動けない。
碧は気を失い、自分も脚を貫かれて動けない。
――もし、怪物が先に自由を取り戻せば。
全員、確実に死ぬ。
戦えるのは、自分しかいない。
龍信は喉の奥で息を呑み、貫かれた右脚の鉄筋を両手で掴んだ。
……足が千切れようと、抜くしかない。
グッ――。
血が噴き、激痛が太ももを貫いた。
それでも、やめない。
――ガタガタガタッ!!
鉄筋はわずかに撓んだ。だが、それ以上はびくともしない。
(……終わった)
何も聞こえなかった。
風も、声も、死の足音さえも――。
龍信は、ただ静かに、諦めた。
目を閉じ、終わりを受け入れようとした――その時だった。
――その沈黙を破ったのは、“あの呑気な声”だった。
「……たく、どこのどいつだよ」
不意に、プレハブの出入口から人の声がした。
龍信は、思わず顔を上げた。
「……誰だよ、こんなもんを部屋の出口に置いた奴は……」
遠くに聞こえるその声は――怒っていた。
しっかりと怒っている。
だが、それが逆に――懐かしかった。
龍信の頬が、じわりと緩んでいく。
黄色いヘルメットに『安全第一』の文字。
ガスボンベとバーナーをずるずると引きずりながら、
華奢な男が、文句を垂れながらこちらへ歩いてくる。
――そう。しっかり休んだ時貞である。
空気を読まず、理屈も気遣いもない男。
けれど――この男が来た瞬間、死の空気が一瞬だけ消えた気がした。
「暗い部屋の出口にさあ、ガスボンベなんか置くやついる?
おかげで足の小指ぶつけて、爪剥がれたんだけど!
これ、知らない人多いけど、人類の構造的にここ一番痛いんだからね!?
しかも腹も痛いし……もうなんて日だ……」
ブツブツと文句をこぼしながら、
地獄絵図の戦場に、寝癖のまま堂々と登場した。
怪物が顔を向けた。
自分の目を刺したあの人間が、ガスボンベを引きずりながら、一直線にこちらへ向かってくる。
金色の瞳が二、三度、瞬きをした。
その動きには――怒りか、それとも恐怖か。
どちらともつかぬ感情に駆られたように、怪物はさらに激しく身を暴れさせた。
(……声?)
かすかに、耳に届いた。
碧は、うっすらと目を開けた。
焼けるような痛み。眩しさ。
それでも、その声は――
「……教授……?」
呑気で、場違いで、それなのになぜか懐かしい声だった。
その声が、心の奥底に、ぽたりと落ちた。
――まだ、終わってない。
碧は、ハンドルから、ゆっくりと体を起こした。
ズキリと、頭が割れるように痛んだ。
額からは、血が伝っている。
こめかみに手を当てながら、碧は小さく首を振った。
龍信の脇まで来ると、時貞が声を掛けた。
その声には、妙に怒気がこもっていた。
「……現場監督!」
「えっ?」
龍信の目の前に――安全ヘルメットを被った時貞が立っていた。
時貞は、龍信のすぐ横でうごめく怪物にチラリと目をやると、
「監督。
こんなもんが部屋を出たところに置いてあって、走って出て来て、足をぶつけて痛いんですよ。
……で、万が一、お腹の傷口が開いたらどうするんです?
また血がドバッと出たら痛いでしょ」
「はあ……」
「現場の安全を第一に考えて下さいよ。
足の小指の爪、いったぁ……って、――あれ? 監督、なにその足」
龍信の太腿を貫いている鉄筋に気づき、顔をしかめる。
「……動けないんですよ」
「あー……マジ痛そうですねぇ。……あれっ、腕は?」
時貞が、龍信の体に目をやると、左腕がないことに気づいた。
龍信は、眉をひそめて、無言のまま苦笑いを返した。
「いやあ、あいつ、ほんとしつこいですねぇ。僕が電流で攻撃して――」
と、時貞が、怪物を手で差した時に、その手にガスバーナーが握られている事に気がついた。
「……ところで、火、あります?」
「あっ、ああ」
龍信が右手でポケットを探り、銀色のオイルライターを取り出した。
時貞はボンベのコックを回し、ガスバーナーに火を点けた。
鋭い青白い炎が、ナイフのように伸びる。
「……少し、熱いかもしれませんよ」
そう言いながら、時貞はバーナーの火を、龍信の太腿を貫く鉄筋――その数十センチ先に近づけた。
火花が散る。熱気が頬を撫でた。
「ちょうど役に立ちましたね。
危険なので物置に片付けようと思って、それで持ってきただけなんですけどね」
「……えっ?」
「いや、これ、これですよ」
と、時貞は手にしたバーナーを、目で示すように軽く振った。
龍信には、何が起こっても、常に軽いノリの時貞の頭の構造が、とても理解が出来なかった。
だが――嫌いなタイプではなかった。
*
碧が、額の血を拭い、頭を振りながら、よろめく足取りでトラックを降りてきた。
ドアの音に――時貞がトラックの方へ振り返る。
「あ、碧ちゃん!」
鼻の下が――また、伸びていた。
「熱っ! ちっちっちっ……!」
その瞬間だった。
時貞がよそ見をしたせいで、持っていたバーナーの炎が、龍信の腿をかすめた。
「教授!!」
龍信が、呆れ半分の声を上げる。
「あっ、ごめんなさい、ごめんなさい」
慌てて火を元の位置に戻す時貞。
龍信は、左腕に続いて右脚まで失いかけたところだった。
「……どこにいたんですか、今まで」
龍信の太腿の傍から立ち昇る煙の中、時貞は碧の方に振り向いて言った。
――龍信は、またヒヤッとした。
「ぼくがひとりで戦ってるところ、見せたかったのになあ」
それは、ついさっきまで怪物に腹を抉られ、生死の淵を彷徨っていた男のセリフとは、とても思えなかった。




