表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血塗れ湖畔が嗤う ~25 HOURS ― 30人の生き残りを懸けた地獄のサバイバル~  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第14話 空を飛んだ怪物と女騎士

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/84

【4】 止まった刹那、振り上げた狂気

碧は、左足を引きずりながら、無我夢中で建物へ向かって駆けた。

もう、自分を助けてくれるのは、そこしかない。

もつれる足で工事用具入れの脇を越え、建物に面した石壁までたどり着いた――その瞬間。


―――ガグシャァアアアンッ!!


天地が裂けるような轟音。

目の前の石壁が内から爆ぜ、石片が弾丸のように飛び散った。

粉塵の中から、黒い影が飛び出す。――怪物だった。


「うわぁっ!」


碧の左肩に、砕けた石塊が直撃した。

細い身体が宙を舞い、頭から地面へと叩きつけられる。

翻るように倒れ込むその姿は、もはや人形のように無防備だった。


荒い呼吸の中で、碧は顔を上げた。

頬をかすめた石の破片が、右目じりを裂いて血が流れる。

乱れた髪の隙間の向こうに――

巨大な黒いシルエットが、怒りの形相で立ちはだかっていた。


怪物の身体は、所々が黒く焦げていた。

だが、それは体表についたガソリンが燃えただけで、実際には大した損傷を負っていないようだった。

その躯は、炎すらも通さぬ“燃えない物質”でできていた。


碧の視線が、怪物の腕に向かう。

左腕――それは、根元から千切れて消えていた。

断面からは、どろりとした緑色の血が滲み、地面に滴を落としている。


……理解した。

あの崩落の下敷きとなって、動けなくなった左腕を――

こいつは、自分で引き千切ってまで、脱出してきたのだ。

怪物の執念も凄まじいものであった。


怪物が、碧に向かって、怒りの雄叫びを上げた。

牙をむき出し、睨みつけ――いつもの威嚇のポーズ。

その咆哮が、残響となって廃墟の空にこだました。


碧は、その声に背を向ける。

怪物は建物側にいた。


碧は、石壁に右手をつきながら、ふらふらと立ち上がった。

左腕は上がらない。崩れた石塊に打ちつけられて、肩が外れていた。

焼けつくような痛みのなか、なんとか脚を引きずって歩き出す。


視界の先に、翔太が見えた。

大きな石の下敷きになり、うつ伏せに倒れている。

その体は、微動だにしない。


碧は、足を引きずりながら、石壁をつたい、湖畔側へ回り込んだ。

そこでようやく立ち止まる。

ハァ、ハァ、ハァ――

喉の奥が焼けるようだった。

頬を伝う血を、作業着の右袖で拭った。


崩れかけの壁に背中を預ける。

この石壁の向こう――建物側から、怪物が来る。

でも、もう逃げる足はなかった。立っているのもやっとだった。


全身、絶体絶命。

塗炭(とたん)の苦しみ”を“満身創痍”と呼ぶのなら――

今の自分は、その言葉を、骨と肉でなぞっているようなものだった。


顔を上げると、諏訪湖の上の空が、もうそこまで来ている朝を待ちわびていた。

諏訪湖の水面も、どこかぼんやりと光を返している。


「……そっか。もうちょっとだったのに」

そう呟いた碧の声音は、悔しさよりも、どこか寂しげだった。


右手を、そっと作業服のポケットに差し入れる。

中から取り出したのは――金属製の大型チューブ。


《《瞬間接着剤》》だった。


工事用具の棚、ツールボックスの中から見つけた、最後の“武器”。

玩具のような軽さと、冗談のような用途。

けれど今の碧には、それが唯一の“逆転の鍵”に思えた。


(――アイツの顔面に。できれば、左目に)


碧は、そう念じるように思った。

右手に握った接着剤のチューブ。そのキャップを取ろうと、左手に視線を落とす。


(……お願い、動いて)


だが、応えはなかった。

ぶらりと垂れ下がった左腕は、すでに機能を停止していた。

感覚も、力も、何ひとつ――もう残っていない。


(もう……っ)


碧は、接着剤のキャップを口にくわえた。

歯でしっかりと咥え込むと、右手をぐるりと回し、キャップを無理やりねじ切る。


「――ッ!」


小さく吐息と共に、それを吐き捨てた。

荒い呼吸の中で顔を上げるその横顔には、どこか龍信に似ていた。


湖畔の近くまで伸びた、怪物の影――。

その影が、碧の影と交差する。すぐそこまで来ていた。


怪物は、ずっしりとした足音を響かせながら、湖畔側の石壁まで来ると、ゆっくりと身体を右へ向けた。

そこで、石壁に左肩を凭れかけるように立つ、ひとつの影を見つける。


その瞬間だった。

碧が、渾身の力で右腕を突き出した。

まるでサイドスローのピッチャーのように、低い軌道で、チューブの腹を力一杯握り潰す。


「……っはぁ」


透明な液体が、鋭い勢いで噴き出した。

狙いは、怪物の顔。せめて、あの左目。


だが。


液体は、上方に三十センチほど上がったところで勢いを失い、

そこから細い蛇のようにふわりと漂い、

無惨にも怪物の足元に、ぺちゃりと落ちた。


――音が、消えた。


碧は肩で息をしながら、空になったチューブを怪物へ投げつけた。

怪物は、それを右腕で軽く叩き落とした。


「……やっぱり、漫画みたいにはいかないか」


碧の目に、乾いた諦めと、かすかな苦笑が浮かんでいた。


碧が後ろに顔を向けると、沢山の鉄筋を積んだトラックが目に入った。

満足に動けない碧は、何かに乗るしか希望が見えなかった。


後方へ下がった時に、足がもつれて尻もちをついた。


怪物が、目の前まで来ていた――

その大きな影が、碧の小さな体を、まるごと包み込んでいた。


怪物の右腕が、ゆっくりと振り下ろされる。


……少し待った。


だが、何も起こらない。

怪物の金色の左目が、二、三度瞬きをしたように見えた。


怪物は、碧の首が欲しかった。

しかし、外側に開く平爪(切り落とすもの)――それが、もう右腕にはなかった。


碧は限界を超えていた。


気力も体力も、そして次の手立ても、もう碧には何も残ってはいなかった。

―――碧は、はじめて覚悟を決めた。


怪物は、なにか恨みでもあるのか、露骨に牙をむき出して、尖った右腕をいつもよりも高く振り翳した。


(碧さん、やったっスね。俺たちが)―――ほんの数分前の、勇敢だった翔太の笑顔が、碧の頭に浮かんだ……。


――長かった夜が、終わろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ