【3】 微笑みの代償は、地獄からの刹那
碧は背中を向けて、工事用具が並ぶ棚の上を手探りで物色していた。
その奥に、誰が着ていたのかもわからない作業着の上着が、くしゃりと丸められて置かれていた。
彼女はそれを掴み、ためらいもなく袖を通す。
長い髪を背中に流しながら、少しだけ襟元を立てた。
ミニ丈のワンピースは肩が大きく開いており、肌が露出している。
もう手遅れかもしれないが――これ以上、素肌に傷を増やしたくなかった。
胸元に縫い込まれた刺繍が目に留まる。
「賀寿蓮組」――その文字を見て、碧はふと、どこか強くなれたような気がした。
「うわ、碧さん、何着ても似合ってるっス。なんか、どこかの総長みたいっス」
翔太が目を丸くして見上げながら、嬉しそうに頷く。
碧は軽く微笑み返すと、再び棚へと視線を戻した。下段の金属製ツールボックスを開け、中に入っていたペンチやレンチの隙間から、《《ある物》》を見つけ出し、無言で作業着のポケットに滑り込ませる。
その瞬間――
「あっ!」
碧が何かを思い出したように声を上げた。
「えっ、なに!?」
翔太は反射的に一歩後ずさり、碧の背後に隠れるように回り込んだ。
「どうしたの?」と、碧が怪訝そうに後ろを振り返る。
「い、いや、今の声……また何か“出た”のかと……」
「違う違う。大事なことを思い出しただけよ」
「……?」
「近くの民家に行かなくても、連絡手段があったの。私、すっかり忘れてたわ」
「でも、連絡手段って……。宿舎の電話と、東峰部長の携帯はもうどっちもダメっスよ?」
「いえ、まだ一台、残ってるのよ。私の車の――自動車電話」
「おおおっ!」
翔太は思わず両拳を握りしめて、ガッツポーズを決めた。
「車の鍵は、部屋のバッグの中よ。……これで、やっと警察と救急車を呼べるわね」
碧の頬に、ほんの少しだが明るさが戻ってきた。
一息ついて、ようやく全てが終わった――そんな安堵が滲む。
「これで、本当におわ……」
翔太が、これまで何度となく口にしたフレーズを呟きかけたそのとき――
「待って、それ言わないで!」
碧が慌てて遮った。
「それ、呪文みたいにフラグ立つから。
毎回、呼んでないのに勘違いした奴が元気に復活してくるじゃない」
「……ああ、確かに。もう番狂わせの復活は勘弁っスよね……」
翔太が苦笑しながらも、不安そうに碧の横顔を見た。
「こっちに来る途中で、穴から覗いたときは、大きな石の下敷きになってたけど……」
碧が言いながら、亀裂の入った石壁を指さす。
翔太も視線を辿り、まだ炎と黒煙を立ち昇らせている石箱をじっと見つめた。
碧は左足を引きずりながら、作業員宿舎に面した石壁へと歩を進めた。
翔太も、少し距離を空けながらその後ろについてくる。
いくらあの怪物がしぶとくても、この高さ三メートル半の壁を飛び越えて襲ってくるとは思えなかった。
それでも、警戒は抜けない。
「碧さん、足……大丈夫っスか」
「ええ、もう自分のじゃないみたいだけどね」
翔太は、その傷だらけの脚を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……でも、綺麗っス」
「え?」
「脚――綺麗っス」
碧は振り返り、微笑んだ。その笑みには、疲れと優しさが同居していた。
翔太は照れ笑いを浮かべ、頭を掻いた。
「翔太くんも、よく頑張ったわね。すごく勇敢だったわよ」
碧の声は、姉のように穏やかだった。
翔太は下を向き、太ももに滲んだ赤いシミを慌てて隠した。
*
碧は石壁に辿り着くと、間隔を空けて開けられた小さな丸穴のひとつを覗き込んだ。
そして、突然。
「――えっ、ええええっ!!」
鋭く叫んだその声に、翔太は心臓が止まりかけ、腰を抜かしそうになった。
「……ちゃってね」
碧が悪戯っぽく笑って振り返る。
「ほら、ここ」
穴の奥を指差す碧に、翔太は半信半疑のまま、そろりと石壁に近づいてきた。
壁のあちこちには、爆発の衝撃で走ったヒビが深々と刻まれている。
翔太は、ごくりと唾を呑み、壁に手をつきながら、丸穴の奥をそっと覗き込んだ。
――見えた。
ダンプカーが燃え盛り、炎と黒煙の向こうに、瓦礫に埋もれた怪物の姿があった。
崩れた石蓋の破片、そして倒れかかった鉄骨クレーンが、怪物の左腕から上半身にかけて、容赦なく圧し潰している。
爪のある片腕だけが、かろうじて露出していた。
だが、それ一本で、この瓦礫の山をどけることは――いくらあの怪物でも、さすがに無理に思えた。
翔太はしばらく黙って、その光景を見つめていた。
……怪物の腕は、ピクリとも動かなかった。
翔太はようやく顔を戻し、振り返って言った。
「碧さん、本当に……やったっスよ。俺たちが!」
満面の笑み。碧も破顔して頷いた。
――あら、あら。ついに言ってしまいましたか、その《《不吉な呪文》》。
「そうね……じゃあ、部屋に戻って車のキーを――」
胸の奥で、ようやく“恐怖”という単語が消えかけた、
その瞬間――
ガシャアアアアアンッ!!!
大地が裂けるような衝撃。
石箱の側壁が、内側から爆ぜた。
空気が膨張し、破片が弾丸のように四方へと散る。
背を向けていた翔太は、飛来した石の塊に押し潰され、うつぶせに地に叩きつけられた。
額から血が流れ、指先がかすかに痙攣していた。
碧も、破片の一撃を受けて、小さな悲鳴とともに地面に崩れ落ちた。
……ああ、やっぱり。翔太が、あの言葉を言ったせい、だったのかもしれない。
「翔太くん! 翔太くん!」
震える手で地面を押さえ、ぐらつく体をなんとか支える。
血混じりの息を吐きながら、碧は立ち上がった。
そして、左足を引きずりながら、プレハブの建物へと駆け出す。
「翔太くんっ……!!」
叫び声は、震え混じりに掠れていた。
碧は走りながら、必死に名前を呼んだが、翔太は微動だにせず、意識はなかった。




