【1】 逆襲の罠、鉄の猛追
中庭で、翔太は鋼鉄製のワイヤーを使って、地面に大きな輪を作った。
見えないように、草と土をかぶせてカムフラージュする。
まるで、カウボーイが牛を捕まえるときの投げ縄のような仕掛けだった。
碧は、そのワイヤーの反対側の端を、ダンプカーの後部バンパーにある牽引用フックへと固定した。
準備が整うと、翔太は石箱の影から、そろりと姿を現した。
――手には、スコップを握っている。
「ぐぉらぁー!」
翔太が大声を張り上げ、スコップで近くの石壁を叩いた。
金属音が響き渡り、怪物が顔を向ける。
「おら、おら、おれを喰ってみな!」
挑発するようにポーズを取った翔太の額には、大粒の脂汗が滲んでいた。
怪物がゆっくりと振り返る。
その金色の眼孔に、獲物を捉えた光が宿る。
次の瞬間、低く吠えると、重々しい足取りで大股に近づいてきた。
四、五メートル先まで迫ったその姿に、翔太はごくりと息を呑む。
巨大な体躯、鬼のような形相。全身がブルブルと震えた。
「ち、ちびりそぉ……」
背後から、鋭い声が飛んだ。
「頑張って!」
碧の激励だった。翔太は振り返らずに、何度か小さく頷く。
碧は足を引きずり、工事用具入れの脇に置かれた発電機用の燃料タンクを抱えると、そのままダンプカーに乗り込んだ。
助手席の足元にタンクを置く。息をひとつ、長く吐く。
(止まったら死ぬ。――でも、まだ終わらせられない)
翔太は、スコップを振りながら後退し、怪物を湖畔側へと誘導していく。
「うぉらぁー! こっちだぞぉ!」
腰が引けつつも、スコップをくるくると振り回して挑発を続ける。
その動きは、ぎこちなくも必死だった。
だが、怪物は一歩、また一歩と距離を詰めたところで――ふいに立ち止まった。
金色の左目が、翔太の背後を向く。
そこには、後ろ向きに停車するダンプカー。
鉄の塊が、怪物には新たな敵に映ったらしい。
仕掛けられたワイヤーを目前に、奴は警戒するように周囲を見渡す。
もう一人いたはずの、白い服の人影――碧の姿が見えない。
怪物の金色の左目が、わずかに揺れた。
――動いたのは、翔太だった。
怪物がわずかに視線を外した、その刹那を逃さずに。
スコップを振りかぶり、全身の力を込めて――
――ガァツン!
振りかぶったスコップが、怪物の頭に直撃した。
グギャゥオー!
怒号のような咆哮をあげ、怪物は翔太へ詰め寄ってきた――その瞬間。
ダンプカーの赤いテールランプが点灯。
「逃げてッ!」
碧の叫びが響くと同時に、エンジンが爆音をあげた。
翔太の足元――地面に仕込まれていたワイヤーが、勢いよく跳ね上がる。
腰の高さほどまで一気に伸び、金属音と共にピンと張った。
次の瞬間、目の前の大きな影が、翻筋斗打って倒れた。
怪物の片足にワイヤーが絡み、締め上げていた。
〈グザァアアッ……〉
仰向けに倒れた怪物は、怒号をあげながら足から引きずられていった。
地面を削り、土砂を巻き上げながら、轟音とともに中庭を滑走していく。
翔太は間一髪、身を翻して横へ飛ぶ。
砂煙の中、彼の足元を怪物の平爪がかすめて通り過ぎた。
碧はギアをセカンドに叩き込み、アクセルを一気に踏み込んだ。
湖畔を左手に、石箱の壁すれすれをかすめながら――
ダンプカーはエンジンを唸らせ、地を蹴るように加速する。
目指すは林の中。
怪物を引きずったまま、碧はそのまま闇へと突っ込んだ。
翔太は背後でその姿を見送りつつ、すぐさま立ち上がる。
そして、宿舎側にそびえるクレーン車――石箱の蓋を吊るしていたあの重機へ向かって走り出した。
一方その頃、碧の操るダンプカーは林を縫うように疾走していた。
片足をワイヤーに取られた怪物は、暴れる両腕で木々をなぎ倒しながらも、翻弄されている。
ダートもダンプも“人生初”とは思えないほど、碧のドライビングは鮮やかだった。
「――ッ!」
大きなハンドルを抱え込むようにして、思い切り右へ切る。
後輪が滑り、助手席の燃料タンクが跳ね上がる。
後方では、怪物の巨体が遠心力で大きく振り回され――
〈バギャッッ!〉
林の大木に、背中から叩きつけられた。
緑色の泡が、怪物の口から飛び散る。
あの怪物に、ここまで無様な姿を晒させたのは、これが初めてだった。
碧はバックミラー越しに、それを確かめて微かに笑った。
「――あんたも尻が痛いわよね」
再びアクセルを踏み込み、林を抜ける。
碧は、石箱に斜めに立てかけられた鉄板へとダンプの正面を向けた。
怪物を引きずったまま、鉄の塊は一直線にその傾斜へ突進。
燃料タンクのキャップを外し、スコップの柄でハンドルを固定。
速度が上がる。
そして――鉄板目前。
「行け――!」
碧は迷いなく、ドアを蹴り開け、跳ねるように飛び降りた。
それはまるで、強力な焙烙玉を山ほど詰んだ悍馬から、
疾風の如く飛び降りる、戦場の女騎士そのものだった。
無人のダンプカーは、凄まじい勢いで鉄板を駆け上がる。
その脇を、引きずられた怪物が通り過ぎる。
鋭い三枚爪が、碧の顔面を狙ったが――
「……しつこいのよ」
碧は頭を下げて躱し、低く呟く。
背後で、鉄の巨体が宙を舞う。
ライトが夜空を裂き――ダンプカーは巨大な石のプールへ突入した。
続いて、片足を引かれた怪物の体が、後ろ向きに宙を舞った。
腕を振り回しながら、そのままダンプカーの後部へ叩きつけられるように飛び込んでいった。
「あんたが生きてたら――初めて空を飛んだ感想、聞かせてよ」
碧はそう呟くと、左足を引きずりながら石箱から距離を取り、林の中へと姿を消した。
――ガシャーン!
火柱。
――ズガーン!
遅れて、空気を殴るような爆音。
光が夜を裂き、音が遅れて腹に響いた。
〈カチャ〉
その光の中、翔太は垂直に立つ石蓋の裏側で、クレーンのウインチにかかっていたワイヤーのロックを外す。
まるで林檎がスローモーションで落ちるように、外れたワイヤーがゆっくりと落ちていった。
石蓋の両端は、二台のクレーンによって吊り上げられていた。だが、今その片方が解放されたことで、全重量が残された一方へと傾ぐ。
しばしの沈黙ののち――
ギチギチときしむ音とともに、残されたクレーンの土台から、太いボルトが弾け飛んだ。
そして次の瞬間――
烈風を巻き起こしながら、巨大な石蓋が傾き、ワイヤーを引きずって、業火の立ち上る石箱の中へと、クレーンごと倒れ込んだ。
――ズシャアアンッ!!
轟音と共に地面が揺れ、空気が震えた。
碧は大木の陰で息を殺し、翔太は工具箱の裏で身を伏せる。
爆風が土埃を巻き上げ、夜空に小石が弾けた。
宿舎の窓が砕け、破片が流星のように飛び散った。




