【4】 戦場に戻る者、静かなる祈り
――午前三時十分。
闇はまだ深く、夜は終わりの気配さえ見せていなかった。
碧と翔太は、中庭の大きな石箱――その湖畔側、影になった場所に身を寄せていた。
巨大な石蓋が、垂直に突き立ち、ふたりの頭上に不安定な影を落としている。
「翔太くん……翔太くん!」
碧が呼びかけても、翔太はその場に崩れ落ち、頭を抱えたまま震えていた。
「……ダメっス。あんな化け物、どうやっても殺せない……」
「翔太くん!」
碧は彼の肩をつかみ、強く揺さぶった。だが、翔太は腕の隙間からわずかに顔を覗かせただけで、またうつむいた。
「戦うのよ!」
碧の言葉に、翔太はぶんぶんと頭を横に振った。
「……もうムリ、ムリっス……」
彼の顔は蒼白で、唇もわずかに震えている。
碧が、周りを見渡した。そして、何かを拾い上げた。
「――っ!」
傍に落ちていた、先の尖ったボルトで、翔太の太股を突き刺した。
「痛っ……!? いったああっ……!」
翔太は驚いた目で、碧を見上げた。
「痛いでしょ。ねぇ、痛いでしょ!」
碧が怒鳴った。
「あんたねぇ、死ぬっていうのは、もっと痛いのよ。分かってんの」
翔太は、きょとんとした目で見詰めている。右手で、刺された腿を撫でている。ズボンには、血がうっすらと滲んでいた。
「私たちが戦わなかったら、誰が戦うのよ!」
碧の声が、張り詰めた空気を裂いた。
「もう、誰もいないのよ! ねぇ、わかってるの!?」
その叫びと共に、碧は翔太のシャツをぐいっと掴んで引き寄せた。
翔太の手が止まる。さっきまで刺された太ももをさすっていたその手が、ぴたりと。
「ここで逃げたら、龍信さんも神童教授も……殺されるのよ」
碧の瞳は怒りに潤み、だが揺らぎはなかった。
「もう戦えるのは、私たちしかいないの。――《《わたしたちしか!》》」
翔太は、その言葉に瞠目した。
一、二度、瞬きをして……その視線がようやく、碧とまっすぐにぶつかる。
「わ……分かったよ」
弱々しくも、確かな言葉だった。
碧は、ようやく彼のシャツから手を放した。
握っていたボルトは、ポロリと手から落ち、地面に転がった。
……そのときだった。
何かが、動いた。
二人の視線がゆっくりと、採集室の出入口へと向かう。
そこに――
巨大な黒い影が立っていた。
中庭へと足を踏み出し、奴は仁王立ちをしていた。
それを見て、碧と翔太は、すぐさま走り出した。
目指すは、作業員宿舎の脇――工事用具の詰まった、小さな物置。
わずかでも反撃の糸口を求めて、ふたりは闇の中へ駆け込んでいった。
*
薄暗い部屋の片隅で、またひとり――戦士が目を覚ました。
「……喧しいな」
龍信は眉をしかめながら、上体を起こした。なぜか、後頭部に鈍い痛みが。
(どこかでぶつけたか……?)
視線を落とすと、足元には何本もの煙草が散らばっている。
そのうちの一本を拾い上げてくわえたものの、ポケットにライターは無かった。
横を見ると、神童教授が罪のない顔で眠っていた。まるで、戦場ではなく休日の昼寝でもしているかのように、穏やかな寝顔で。
「教授は吸わなかったっけな……」
独りごちながら立ち上がると、肘から下の無い左腕が鈍く疼いた。
皮膚は火傷のように赤くただれていたが、出血は完全に止まっていた。
龍信は頭を軽く二、三度振って感覚を整えると、足元のガスボンベとバーナーを引きずり寄せた。
そのまま、静かに採集室の方へと歩き出した。――まるで、まだやり残した、大事な仕事があるかのように。
採集室に足を踏み入れると、幾らか外のライトが入るために室内は明るかった。
龍信は足を止め、ぐるりと辺りを見渡す。
中央の巨大な石箱には、蓋がされていた。だが、中央は大きく崩れ、そこにブルドーザーが頭から突っ込んでいた。まるで巨大な獣が身を投げたような、不自然な角度で。
怪物の姿は、なかった。
「……また派手にやったな」
龍信はぽつりとつぶやいた。
「ブルドーザーのセメント漬けかよ。修理代、高くつくぞ」
そう言いながら、中庭側の壁へ視線をやる――その瞬間、言葉が止まった。
手にしていたガスバーナーが、がちゃんと音を立てて床に転がった。
そこにいた。
壁際に背を預けて、寄り掛かるように座っている――彗の亡骸。
龍信は無言のまま近づき、跪いた。
そして、血の気を失った頬に、そっと手を添えた。
「……彗」
その声は、これまでにないほど優しかった。
「お前が死ぬなんて、……ありかよ」
彗の横顔に、外の月明かりが差し込む。
「お前、何で戦ったんだよ。隠れてりゃよかったんだ。そうすりゃ、助かったかもしれねぇのに……」
視線を落としたその時、彗のズボンのポケットから、キラリと光るものがのぞいていた。
龍信はそれを拾い、くわえたままだった煙草に火をつけた。
裏返すと、そこには小さく『S・Y』の刻印。
――先ほど、どこか照れくさそうにその話をしていた、彗の笑顔が脳裏に浮かんだ。
龍信は、ライターをそっとポケットにしまい込んだ。
「……彗」
彼は、暫く彗の死に顔を見つめていた。
「おれが終わらせてやる。だから、ここで少し待ってろ」
龍信が吸っていた煙草を掴むと、そっと彗の口にくわえさせた。
「お前、格好いいよ。……彗」
龍信は目を細めて、立ち上がった。
その背後で、どこかの鉄が、かすかに軋んだ。




