【4】 封印の代償、沈んだ英雄
彗は、頭を横に振った。
「……やっぱいい。翔太、石蓋を下ろす準備をしてくれ」
そう言って、顎で奥を示した。
天井から鎖で吊られた巨大な石蓋――
それは、セメントの箱を封じるための、最終の“扉”だった。
「翔太! おれがこいつをセメントに落とす!
そしたらすぐに――蓋を閉めろ!」
翔太は何も言わず、鎖の固定された柱の方へ向かった。
一度失敗しただけで、すでに彼の胸の奥には焦げ跡のような自尊心が残っている。
(……なんだよ、一回くらい失敗しただけで……)
その悔しさを噛み潰すように、翔太は鎖を握りしめ、叫んだ。
「彗ッ! いつでもいいぞ!!」
それはまるで、自分の情けなさを振り払うような、叫びだった。
◇
彗は、鶴嘴を構えながら、怪物の動きを見据えた。
爪が源次に振り上げられるたび、背後から一撃を放ち、注意を引く。
振り返られた瞬間に距離を取る――その繰り返し。
呼吸は乱れ、腕は震え、それでも足は止まらない。
一方の源次は、傷ついた体を引きずりながら、
怪物をセメントの箱の方へとじりじり押し込んでいた。
分厚い胸板にどっしりとした肩、
血で染まった作業服越しでもなお圧を放つ体躯。
鼻の下の立派な口髭は汗と泥で濡れていたが、
その奥の小さく窪んだ目には、一点の迷いもなかった。
その足元は血と汗で滑るが、それでも踏みとどまり、
いつでも押し落とせる位置を狙っていた。
「彗っ! 準備オーケーだってば!!」
箱の向こう側で、翔太が叫ぶ。
鎖を握ったまま、どこか少し気楽そうに見える顔。
「わかってるよッ!!」
彗が怒鳴り返す。息は荒く、汗が目に入る。
それでも、鶴嘴を構え直して、また怪物に立ち向かう。
――そのときだった。
ミキサー車の陰に隠れていた碧が、突如、中庭の方へと駆け出した。
(……えっ? どこ行くの?)
誰もが一瞬、目を奪われた次の瞬間――
ガシェーンッ!!
耳を劈く金属音。
源次が持っていたチェーンソーの《刃》が、ついに限界を迎えた。
バチン、と激しく跳ねて飛び――
シュルルルルルゥゥゥ!!
と、彼の太い右腕をかすめ、足元に落ちて渦を巻く。
「くそっ……!」
源次が呻きながら後退。
怪物がその隙を見逃すはずもなかった。
「ヤバいッ!」
彗が叫び、慌てて鶴嘴を振り上げた。
怪物がぎょろりと彗の方へ振り返る――その刹那。
源次が、チェーンソーを捨てて飛びかかった。
全身をぶつけるように、怪物の背中へと突進した。
それが、源次の――最後の力だった。
怪物がぐらりとバランスを崩す。
咄嗟に、右手の平爪を広げ、背中の源次を引き裂こうと振り上げる。
だがその瞬間、彗が飛び込んだ。
渾身の力を込め、
横殴りの一撃。
彗の鶴嘴が、怪物の左頬を強打した。
口から、僅かに緑色の液体が飛び散った。
「おしいーっ!」
翔太の声が響いた。
だがその一言が、まるで“狂った応援”のように、虚しく空間に弾けた。
――命中したのは、左目の、ほんの少し下だった。
次の瞬間。
怪物の右腕が、真横に弧を描いた。
「ぎゃああああッ!!」
それは――彗の正面。
逃げる間もなく、鶴嘴を持っていた左腕が宙を舞った。
同時に、左のわき腹が真一文字に裂けた。
裂けた皮膚の隙間から、熱いものが一気に流れ出す。
悲しいかな――
彗には、源次や龍信のような、
常人を超越した耐久力も、反応速度もなかった。
……痛みではない。
それは、“喪失”だった。
自分の一部が、欠けた。
その瞬間、世界の音が一瞬だけ遠のいた。
(……左腕が、ない?)
何かが、自分の中からこぼれ落ちていく感覚だけが、
脳に、焼きついていた。
彗は、崩れるように膝をついた。
口を開いても声は出なかった。
それでも、血の涙のような汗をこめかみににじませて、顔を上げる。
――そこにいた。
右手を高々と振り上げ、怒りに咆哮する怪物の顔が。
咆哮というより、“咽ぶような咆え”。地の底から響く声だった。
その瞬間だった。
源次が、怪物の背から身を放した。
そして、再び――巨躯を振り絞って、全身で体当たり。
「危ないッー!!」
翔太の絶叫が、空間を裂いた。
怪物が振り返る。
右腕の爪を閉じ、反射的に――
源次の腹へ、真上に突き上げた。
―――ズゴンッ!!
重く鈍い音が響いた。
だがその後に訪れた沈黙のほうが、なぜか長く感じられた。
軽トラックのドア――
即席の鉄鎧を貫通し、源次の腹に、《《怪物の尖った腕がめり込んだ》》。
だが、源次は離さなかった。
血の泡を吹きながらも、
その両腕で、怪物の右腕をがっちりと抱え込んだまま――
自ら、後方のセメントの箱へと、引きずりながら落ちていった。
――抵抗する怪物。
咆哮とともに、灰色の液体が飛び散る。
それでも源次の手は離れない。
どろりと重たい灰色の海の中――二つの影が沈んでいく。
それが、源次の最後の捨て身の攻撃だった。




