【3】 その怒り、制御不能
解剖室に――龍信が飛び込んできた。
視界の中――転がる死体。砕けた機材。
そして、チェーンソーを振り下ろす源次。
その前で、牙をむき出しに咆哮する怪物。
その異様な巨躯、血に染まる惨劇の光景に、龍信の背筋に冷たいものが走った。
だが――それ以上に、彼の全身を突き動かしていたのは、“怒り”だった。
龍信は、持ってきた鶴嘴を、静かに壁際に立てかけた。
代わりにポケットから黒いレザーグローブを取り出し、
ゆっくりと両手にはめた。
右手を顔の前にかざす。
拳を握る――キュッ。
革が馴染む音が、血の海の中に小さく響く。
「若! 危ないから、下がってください!!」
源次の声が飛ぶ。
だが、龍信は応えない。
代わりに――静かに、素手のまま怪物へ歩を進めた。
その足取りは、まるで地を叩く太鼓のように重く。
その眼差しは、まるで神罰の前触れ。
こういう時の龍信は、“完全にキレていた”。
*
――源次の脳裏に、遠い記憶がよぎった。
中学時代。
放課後、友人と歩いていた帰り道のこと
たった一度、目が合っただけで絡んできた三人のチンピラ。
「土下座して詫びろ」と言われ、友が震えた。
友は地面に膝をつき、泣きながら頭を下げた。
だが、龍信は詫びずに言った。
「やるなら俺をやれ」
チンピラたちは笑った。
「お前が詫びないせいで、友達がこうなるんだ」と言いながら、
三人がかりで友を蹴り続けた。
――その瞬間。
龍信の中の“何か”が切れた。
止めようとした者たちも、無意味だった。
殴り。砕き。三人を叩きのめした。
結果、十九歳のチンピラが一人、意識不明で一週間眠った。
龍信が病室を覗いたとき、
ベッドの脇に座る痩せた母親の姿を見た。
泣かず、叫ばず、ただ無言で手を握っていた。
その横顔を見て、龍信はもう喧嘩をやめた。
――二度と、怒りを解放してはいけないと知ったからだ。
だが今――
あの時、チンピラたちを殴り続けていた“あの龍信”が、ここにいる。
こうなると――
もう、誰にも彼を止めることはできない。
*
「若ッ!」
源次が叫ぶ。
その声が届くよりも早く、龍信の右足が走った。
ドゴッ。
鋭く、えぐるような蹴りが、怪物のがら空きの脇腹に突き刺さる。
ドゴッ、と鈍い衝撃音。
巨体が、一歩、後退する。
チェーンソーと蹴り。
怪物は、二方向からの攻撃を受け続けるのは不利だと悟った。
距離を取ろうと後ずさる。
だが――龍信がそれを逃さない。
「はぁッ!」
気合とともに踏み込む。
懐に滑り込んだ瞬間、鋭く絞り出すような右ストレートが、
怪物の左目を的確に撃ち抜いた。
ズン――と、顔が僅かに反り返る。
その光景を前に、源次は一歩後ろへ下がった。
チェーンソーを一旦下ろす。
龍信が前に立っていては、こちらは攻撃できない。
ましてや――自分の体力は、すでに風前の灯だ。
と、その時だった。
足元に、何かが光った。
「……!」
源次はしゃがみ込むと、それを拾い上げ、腹に巻いた晒の内側へと滑り込ませた。
その顔に、一瞬だけ、笑みが浮かぶ。
*
―――戦況は、龍信に託された。
パワーでは敵わない。
だが――スピードなら勝てる。
龍信は、まさに疾風のようだった。
右へステップ、フェイントをかけ、左フック!
怪物の右側頭部に、黒い拳がめり込む。
続けてもう一発! 今度はさらに深く、鋭く!
しかし――
「グォアァ――ッ!」
怪物の右腕が唸りを上げて、下から弧を描くように振り上げられた。
殺気を感じ、龍信は咄嗟に左肩を引いて回避。
刹那、スレスレで爪の軌道を躱す。
バランスが崩れる――
だが、そのまま体を捻り、反動を活かして――
「喰らえッッ!!」
渾身の右アッパーが、下から怪物の顎を撃ち抜いた!
グゴンッ、と微かに軋む音。
だが――その衝撃は、龍信自身の拳にまで跳ね返ってくる。
「効いてようが効いてまいが、関係ねぇ!」
血が滴る。痛みよりも、笑いがこぼれた。
至近距離での応酬。
「若ッ!!」
源次の絶叫が、怒号のように響いた。
間髪入れず、もう一撃。
左フックが顎を狙う――が、
怪物の右腕が下から唸りを上げて襲いかかった!
刃のような肘が、闇を切り裂く!
龍信はスウェー。
髪一本の差で回避。
「ッらぁッ!」
反動を使い――右腕を蹴り上げる!
バギィィッ!!
怪物の爪の開いた肘関節を下から弾き飛ばした。
その爪が自らの額を掠め、緑の血が弧を描く。
「グギャアアアアアア!!」
怒号。
怪物が狂ったように咆哮する。
鋭利な右腕を反射的に顔から遠ざける――
空いた。今しかない!
龍信が拳を握り締め、最後の距離を詰めようと――踏み込んだ、その時。
「ぐっ――!?」
ドグゥッ!!
怪物の左拳が、横から突き刺さる。
不意打ちの一撃――
龍信は、完全に見落としていた。
鋭利な右腕ばかりに意識を奪われていたのだ。
「が……っ!」
身体が宙に浮いた。
翻筋斗打って、後方の壁へと――叩きつけられる。
ドグワァアアアアアン!!
建物が悲鳴を上げて揺れる。
龍信は、俯せのまま崩れ落ちた。




