【1】 生き残るため、引き返せぬ夜に
――照明の落ちた採集室。
鉄の匂いと焼け焦げた樹脂の臭気が混じり、暗闇の奥で何かがゆっくりと滴っていた。
そこへ、源次が蹌踉けながら姿を現した。
裸の上半身は血に濡れ、拳は震えている。
それでも眼だけは、まるで獣のように冴えていた。
直後に、外から重い足音。
龍信が駆け込んできた。
「若ッ!」
「……なんだ、これは……」
龍信の視線が闇に吸い込まれる。
床に転がる人影、焦げた金属、壁に焼け付いた血の跡――。
目の前の光景が、現実と脳が一致しない。
「怪物が……奥に、一頭、まだ生きてます」
荒い息を吐きながら、源次が答える。
上半身は血に塗れ、顔にも無数の擦過傷。
その姿を見た龍信は、無言で自分の作業着を脱ぎ、源次の裸の肩に掛けた。
そのとき――背後から、甲高い悲鳴が響いた。
「きゃああああッ!」
少し遅れて入ってきたのは碧だった。
蒼白な顔で足元をふらつかせ、今にも倒れそうだ。
龍信が慌てて駆け寄り、崩れ落ちる身体を支える。
「……怪我されたら困るんだよ」
怒りとも優しさともつかぬ声で呟いた。
「田辺博士も、採集員たちも……全滅です。
神童教授も、中で腹を抉られて、虫の息です」
源次がかすれ声で告げ、ゆっくりと外へ向かう。
龍信も、碧を抱えたまま、それに続く。
「怪物の右腕には、三枚の鋭い爪が付いている。
開けばあらゆるものを切り裂く“剃刀”。
閉じれば、何でも突き通す“アイスピック”だ。
皮膚は異常なまでに硬くて、ピストルの弾すら通らない。
教授が鉄筋で右目を刺して、そこから電流を流し込んだ……それでも、死ななかった。
――やつは、不死身ですよ」
そう言いながら、源次は中庭へと歩き出す。
月光が割れたガラスを通り、瓦礫を淡く照らしていた。
ふと顔を上げると、クレーンに吊り上げられた巨大な石の蓋が目に入った。
それは――まるで、天から覗き込む恐竜の首のように見えた。
“もう本物の恐竜が出てきたって……驚きゃしねぇな”
源次の乾いた笑みが、唇から零れた。
*
「胸を?」
碧が心配そうに見上げた。
「ああ、肋骨を何本かやられた。でも、こんなもんじゃ倒れんよ」
源次は眉をしかめながらも、無理に笑ってみせた。
「それで、これからどうするつもりだ?」
龍信が問う。
源次は、宿舎の方を指差した。
「若と碧さんは、宿舎へ行ってください。みんなを起こして、警察と救急車を。……急いで」
そう言い残し、背を向ける。
宿舎とは逆方向――闇の奥へ。
「源さんは……?」
碧が呼び止める。
「俺にはまだ、やらなきゃならないことがあるんで」
振り返らずに答える声は、低く静かだった。
だが、その背中には、確かな覚悟の炎が宿っていた。
「若、頼みましたよ。怪物は、すぐ来ます」
黒い影が、夜に溶けた。
*
龍信と碧は、全力で宿舎へと駆けた。
その背後――闇の中でエンジン音が唸り、ヘッドライトが灯る。
やがて二人は宿舎の前に――。
扉を押し開けて中へ飛び込んだ――だが
――中は静かだ。あまりに静かだった。
薄暗い宿舎の中を見渡した瞬間、二人は凍りついた。
そこには――
血。
血。
血。
十数名の作業員たちが、血だまりの中に倒れていた。
部屋の奥まで無造作に転がる死体。
床を這う赤黒い液体。
鉄の匂いが濃く、呼吸するのも苦しい。
龍信と碧は、言葉を失った。
現実なのか悪夢なのか、確信が持てなかった。
沈黙を破ったのは碧だった。
「……で、電話を!」
震える声。だが、冷静さを必死に保っていた。
「ああ……」
龍信が頷き、壁際の電話機へ向かう。
――しかし、そこにあったはずの電話は粉々に砕かれていた。
その横には、受話器を握ったままの“手首”が転がっている。
床には胴体のない腕。
首のない死体。
白い壁が、血で黒く染まっていた。
「……誰かが、助けを呼ぼうとしてたんだね……」
碧がかすれるような声で呟いた。
その悔しさが胸に刺さる。
*
龍信は無言で拳を握りしめる。
ほんの数時間前まで笑っていた仲間たち――その全員が冷たい屍となっていた。
言葉を探す碧だったが、何も言えず、
ただ、龍信の背中のそばに立つことしかできなかった。
その時――。
碧の背に、ふと気配が走った。
視界の隅で、薄暗い宿舎の奥――何かが、ゆらりと動いた。
碧は反射的に振り返る。
声を出しかけたが、喉が固まった。
龍信も即座に気づき、無意識に足を開いて構えを取る。
緊張が一瞬にして場を支配した。
「若ッ!」
その声に、二人の目が奥を捉えた。
シャワー室の入口――そこに立っていたのは、にきび面の吉田 彗と、痩せぎすの森川 翔太。
「お前ら……生きてたのか!」
龍信は駆け寄り、彗の肩を掴む。
「ぼ、僕ら……シャワー室にいたんです! たまたま!」
彗が震え声で言う。翔太が必死にうなずく。
「二人で風呂入ろうとしてたら、外でドカーンて音がして……!
ドア開けたら、デカい化け物が――!
だから電気を消して、ずっと息止めて隠れてたんス!」
龍信の顔がわずかに歪んだ。
「……なんで逃げなかった?」
「じょ、冗談じゃないっス!
外に何匹いるか分かんないし、走ったら終わりッスよ!」
翔太も青ざめた顔で、こくこくと頷く。
碧が小さく息を吐いた。
“生きている”というだけで、涙が出そうだった。




