【3】 止まったはずの鼓動、そしてその目が
薄暗い部屋の中――
源次はすぐに立ち上がり、足元に注意を払いつつ、時貞のもとへ駆け寄った。
その身体を抱き起こすと、左わき腹が裂けており、そこから血が静かに滲み出している。
源次は、時貞の腕を自分の肩に回すと、身体を引きずるようにして、倒れている日向の方へ向かった。
(教授……あんた、こんな軽い身体で、まったく無茶なことを……)
心の中で呟く声は、怒りと心配と尊敬が入り混じったものだった。
一方、麟太郎は、ふらりと立ち上がると――怪物に目を向けた。
部屋の照明は落ちていて、非常灯の緑色の光だけが、ぼんやりと揺れていた。
怪物の体からは、白い湯気のような煙が立ちのぼり、かすかに燻るのが見えた。
天井から垂れる鎖に全体重を預け、まるでブランコのように、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
重たく垂れ下がった両腕。深く俯いた顔。
背を丸めたその姿は――まるで“考え込む巨人”のようで、不気味さと哀れさが入り混じっていた。
右目に突き刺さった鉄筋の先端は床に届いており、顔の位置は胸の前――その異様な姿勢に、麟太郎は無意識に息を呑む。
麟太郎は、テーブルの上のビデオカメラにそっと手を伸ばした。
――◇――
源次は気絶した日向の肩を掴み、荒々しく引き起こす。
その顔は真っ青で、目も口も虚ろだった。
「……起きろ」
〈パシーン!〉
乾いた音が部屋に響く。
「――っ!」
日向が目を見開き、荒い息を吐きながら周囲を見回した。
血と煙と焦げた匂い。
床には仲間の血。天井には黒い煤。
そして――鎖に吊られた“それ”。
「ぎゃあああああっ!!」
悲鳴が割れる。
すぐさま、もう一発。
〈パシン!〉
「落ち着け! 終わった! もう終わったんだ!」
源次の声が鋭く響く。
「……教授の手当てを、早く!」
そう言って、源次は時貞のシャツをめくり上げた。
傷は胸から腹にかけて大きく裂けていたが、思ったほど深くはない。
怪物の爪が閉じていたおかげで、致命傷には至らなかった。
とはいえ、血は止まらずに滲み出している。
「死んじまうぞ、教授がッ!」
怒鳴る声に、日向の震える手がようやく動いた。
源次が首の無い丹波のシャツを乱暴に引き裂き、布切れを投げる。
日向はそれを受け取ると、涙で濡れた手で時貞の腹に巻き付けた。
結ぶたびに、その震えが少しずつ収まっていった。
――◇――
「風見さん!」
源次が叫ぶ。
「宿舎へ行って、みんなを起こせ! 警察にも連絡を!」
テーブルの陰でカメラを点検していた麟太郎が顔を上げた。
「……冗談じゃないですよ」
「は?」
「外にはまだ化け物がいるんでしょ? ここにいた方が安全ですって」
静まりかけていた空気に、冷たい声が落ちた。
その瞬間――源次がゆっくりと立ち上がる。
額の傷から血が伝う。
怒気がその顔に宿った。
一歩。
また一歩。
「バカヤロウッ!!」
〈ガンッ!〉
怒鳴り声と共に、拳が振り抜かれた。
麟太郎の手からカメラが弾き飛び、壁に叩きつけられる。
レンズが砕け、基盤が床に散った。
「な、何すんですか!」
返す言葉も遮られる。
源次が襟首をつかみ、荒々しく引き寄せた。
「早く救急車呼ばねぇと、教授が死ぬ! 今すぐ行けッ!」
麟太郎は言葉を失い、ただ見開いたまま固まった。
――そのとき。
〈ジャリ……〉
鎖の軋む音。
誰も、声を出さなかった。
源次がゆっくりと振り返る。
麟太郎も、その肩越しに覗き込む。
部屋の中央。
怪物は相変わらず、鎖に絡まったまま、頭を垂れ、目を閉じて小さく揺れていた。
源次が低く呟く。
「……行かねぇなら、俺がお前を――」
「わ、分かりましたよッ!」
麟太郎が慌てて叫ぶ。
その瞬間――
部屋の中央、ほの暗い鎖の下で。
ぶらさがる怪物の顔――その“目”が、ゆっくりと……開きかけた。
そして、垂れ下がった左手。
その指先が――ほんのわずかに、ピクリと、動いた。
――◇――
「おれは、あれにガソリンをかけて燃やす。
……だから、あんたは早く――警察と救急車を呼んでくれ」
源次はそう言うと、親指で背後を指し示した。
部屋の奥で、日向が懸命に布を締めていた。
晒のように巻き付けた白布が、血でじわりと染まる。
呼吸の音だけが、部屋を満たしていた。
日向は手を止め、顔を上げた。
視線の先――首のない同僚の丹波が、
自分の“顔”を抱くように崩れ落ちている。
さらに奥、腹を穿たれた田辺博士の姿が目に入る。
……そのすぐそば。
蛍光緑の非常灯が、かすかに何かを照らしている。
それは、鎖に吊るされたままの怪物の下肢だった。
ただ吊られているだけなのに、まるで“そこに在る”だけで、空気が違った。
日向助手の視線が、その足からゆっくりと上に移動する。
太もも。腰。背中。肩。
――そして。
「きゃあぁぁぁーっ!!」
日向の絶叫が、沈黙を裂いた。
源次が反応して振り返り、彼女の視線の先を追う。
麟太郎も反射的にそちらを覗き込む。
部屋の中央――首無しの背中を向けていた“大きなそれ”が、
ギギ……ギギ……と音を立てながら、ゆっくりと――立ち上がった。
右肩に絡まった鎖を、左手で掴むと、次の瞬間――
〈ガツンッ!〉
力任せに引きちぎった。
天井が震え、鉄板がきしみ、空気がびりつく。
「げ、げぇぇぇぇっ……!」
麟太郎が顔を引きつらせながら、首を大きく左右に振った。
それはもはや、言葉ではなかった。




