【2】 背水の鎖、死角からの一撃
怪物は、ぐぐっと音を立てて、
田辺博士の背中に突き抜けた右腕を、腹から引き抜いた。
三枚爪の隙間から、どろりとした鮮血が滴り落ちる。
「ちくしょーッ!」
叫んで飛びかかろうとした源次を、
――時貞が、短めに握った鉄筋を構えて、前に出た。
怪物の大きな背が――振り返る。
一メートル先――巨大な顔が、時貞を真っ直ぐに睨み据えた。
「うおぉぉぉぉおおおおおっ!!」
咆哮とともに、時貞が身体ごと突進する。
飛び込んだその手から、鋼の鉄筋が唸りを上げ――
〈グシャァァァァーッ!〉
金属音と共に、鉄筋が怪物の右目に深々と突き刺さった。
噴き出した緑色の液体が、時貞の頬に飛んだ。
「グ、ギャオッ、ギャァァー!!」
怪物がのけ反る。
暴れる。
巨体がもがき狂い、右腕を振り回す。
その一撃が――時貞の左わき腹を斬り裂いた。
「ぐあっ……!」
人形のように、横の壁へ弾け飛ぶ時貞。
鈍い音とともに、床を転がり、息を詰まらせる。
怪物は咆哮を上げたまま、
左手で顔の鉄筋をつかみ、引き抜こうと必死にもがいていた。
緑色の血が、天井まではね飛ぶ。
壁に手をつき、わき腹を押さえて立ち上がる時貞。
腹からは、赤黒い血が滲み、じわりじわりと滴り落ちる。
足元が揺れる。
意識が、次第に遠のいていく――。
「教授っ!」
源次が、苦悶の声を漏らす。
いつも涼しい顔を崩さない時貞が、明らかに顔を歪めている。
滲む汗と、血に染まったシャツ。
足を引きずりながら、麟太郎のそばへと近づいていく。
「それを……」
麟太郎が震える手で、プラスのコードを差し出す。
時貞はそれを受け取ると、小さく頷いて囁いた。
「合図したら……スイッチを……電圧は……最高に」
かすれた声に、麟太郎がハッと顔を上げた。
頷くと、配電盤の蓋を勢いよく開けた。
(教授……そんな体で。次は――俺だよな)
源次は拳を握りしめ、肺いっぱいに息を吸い込んだ。
「うぉりゃぁぁぁあああああっ!!」
――咆哮と共に、鉄のテーブルを盾のように構えて、怪物へ突進!
全体重を乗せた体当たり。
だが、怪物も唸るように応じ、テーブルごと弾き返す。
源次の巨体は宙を舞い、壁へと叩きつけられた。
「グッ……!」
床に転がりながらも、源次の一撃は確かに効いた。
巨体の怪物が足をもつらせ、バランスを崩す――
――〈ズシャァンッ!!〉
その身体が、天井から吊られた鎖に絡みつく。
ブランコのように腰を乗せる形で、鎖がのしかかる。
天井の鉄骨がぎしりと撓み、壁が悲鳴を上げる。
建物全体が、ごごごと揺れた。
その隙を逃さず、時貞が、ふらつきながら怪物に近づく。
突き刺さった鉄筋――怪物の右目に深く突き立ったその先に、
プラスコードを巻き付けた。
鉄筋を引き抜こうとする怪物。
「スイッチを! 行けぇぇぇええええっ!!」
怒鳴った次の瞬間、時貞の身体が崩れた。
そのまま俯せに倒れこみ、腹部から鮮血が流れ出している。
「っ……教授!」
麟太郎が叫び、震える手でスイッチに飛びつく。
レバーを――バン!と押し上げたかと思えば、ダイヤルを最大まで一気に回し切った。
――〈バチィィィィィッッ!!〉
その瞬間、
世界が――止まった。
時が、引き裂かれるように、ゆがむ。
空気が、バチバチと音を立てて震え、
眩い閃光が、空間そのものを切り裂いた。
怪物の身体を、電撃の蛇が這い回る。
鎖が、青白く光りながら、跳ねるように弾け、
背中――そして眼窩に突き刺さった鉄筋が、
避雷針のように火花を噴き出す!
〈バチッ、バチッ、バチバチバチバチ……!!〉
雷鳴のような音が空間に充満し、
電流が鎖から怪物へと容赦なく叩きつけられる!
「グギャアアアアアアアァァァァ……ア゛ア゛ア゛ア゛アアア!!」
右目からは白熱した火花が噴き出し、
焦げる音とともに白煙が立ち上る。
部屋の照明が過電圧で明滅を繰り返し、
天井が青白く明滅して――まるで戦場のようだった。
源次は壁際で両腕を交差し、
火花のシャワーを必死に防いでいる。
麟太郎はテーブルの下からそっと顔を出す。
暴れていた怪物の左手――鉄筋を掴んでいたその手が、
ガクリと力を失い、ぶらりと落ちた。
怪物の巨体は、まだピクリピクリと痙攣している。
――そして。
〈ズッコォォン!!〉
麟太郎の頭上で、壁の配電盤が爆ぜた!
火花とともに金属板が吹き飛び、
室内の照明が一斉に落ちた。
――沈黙。
闇の中で、唯一残るのは、廊下の非常灯の緑の光。
その淡い明かりの中で、配電盤は日向の傍らに転がり、
黒い煙をくゆらせて――燻っていた。




