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血塗れ湖畔が嗤う ~25 HOURS ― 30人の生き残りを懸けた地獄のサバイバル~  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第9話 貴公子の初陣

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【5】 逃げ場なき密室、嘘と真実の狭間で

――天正元年(元亀四年)四月十二日、夜半。


長篠城。

寒狭(かんさ)川と大野川の合流する断崖の上に築かれた、小さな山城である。

藁葺(わらぶき)屋根が風に鳴り、篝火(かがりび)の炎が夜気に揺れていた。


いま、その城は――三河進撃を目前に控えた武田軍の陣中だった。

山間を渡る風は冷たく、焚き上げられた松明が闇に赤い軌跡を描く。


「お屋形様ッ――!」


砂塵にまみれた間者が、息を切らせて駆け込んだ。


「何事ぞ!」

怒声が響く。

声の主は、武田四天王の一角――高坂昌信(こうさかまさのぶ)


「信長の刺客が放たれました!」


その報せと同時に、板戸が音を立てて開く。


現れたのは――夜着の上に女物の薄衣を羽織った男。

堂々たる口髭をたたえ、その瞳は深く燃えるように暗い。

甲斐の虎、武田信玄である。


信玄は静かに板の間に胡坐(あぐら)をかき、昌信へと向き直った。


「して、諏訪の支度は整うておるか」


その声は、風よりも低く、炎をも鎮める静けさを帯びていた。


「万事、滞りなく」

昌信は深々と頭を垂れる。


「ならば、ただちに諏訪へ――マサカゲを遣わせよ」


その名が告げられた瞬間、

部屋の空気がぴたりと凍りついた。


山縣昌景(やまがたまさかげ)

赤備えの猛将にして、信玄が最も信を寄せる“牙”。

“諏訪の件”――その言葉の裏に潜む真意を、誰も問うことはできなかった。


「御意!」


「この信玄も、夜が明けしなば直ちに発つ。

 後駆(しんがり)は、そちに任せるぞ」


「はっ、畏まりまして候!」


昌信はひと際深く一礼し、踵を返して階段を駆け下りた。


残された信玄は、篝火のゆらめく方を見つめたまま、

静かに、しかし確かに、口の端を吊り上げる。


その時――風が、ひときわ強く吹き抜けた。


――◇――


「……さて」


時貞は薄暗い部屋を見回し、口元に笑みを浮かべた。

今にも壊れそうな笑顔。だがその奥では、何かを計算していた。


その背後で、麟太郎がカメラを構えようとしている。

レンズの赤いランプが、点滅しかけた瞬間――


「あんたぁッ!」


時貞の怒号が響いた。


「……あんた、あんた、あんた!あ・ん・た・ぁッ!!」


麟太郎が目を細め、うるさそうに顔を上げる。


「なんですか、いま忙しいんで」


「いい話があるんです。聞いてくださいよ!」


「いや、いいです。聞きたくないんで」


即答。興味ゼロ。


だが時貞は気にする様子もなく、続けた。


「大事なことなんですよ。――あなたの生死に関わる話です」


麟太郎の眉が動く。


「……精子の話じゃないですよ」


「……笑えないですよ」


完全に引いた顔。

カメラを握る手だけが震えている。


「もういいです。

 僕は撮影で忙しいんで、あなたたちで勝手に戦っててください」

そう言い残し、田辺博士のほうに軽く手を振った。


「博士も頑張ってくださいよー」


不意に声をかけられた田辺博士は、渋い顔で一瞥をくれただけだった。

彼は未だ、反撃の好機をうかがっていたのだ。


「あんた、……あんた、あんた、あんたぁっ!」

それでも少しもめげない時貞が、急に声の音量を上げた。

その叫ぶような声に、麟太郎はため息をひとつつくと、諦めた顔で、


「もう何なんですか!」

と、どうでもいいように応えた。


「――あなた、窓から逃げようとしてるでしょ」


ピタリ。麟太郎の動きが止まる。


「ええ。逃げますとも」


「それ、無理です」


「……は?」


「逃げるのは……ちょっと、できません」

時貞は肩をすくめて、指で“ちょっと”のポーズを作った。

親指と人差し指の間をほんのわずかに開け、その隙間から覗くように言った。


麟太郎は、やや怪訝な顔を浮かべた。

が、まだ時貞の話を本気にする気はなさそうだった。


「さっき、わたしが逃げ出したの、見てましたよね?」

「ええ。見事な尻ダッシュでした」


「その時の、わたしの様子、どうでした?」

「超格好悪かった」


あっさり答えられて、時貞はむしろ満足そうに頷いた。


「じゃあ、そんな格好悪くて臆病なわたしが、なんでまたここに戻ってきたと思います?」

麟太郎は、少しだけ眉をひそめた。

あの、ゼリーに滑って転げ回って、爆速で這い出していった時貞が――確かに、なぜ戻ってきたのだろう?


「……何でです?」


「戻ってきたんじゃないんですよ」

「……え?」


「逃げてきたんでよ」


「は?」と麟太郎が、眉間にシワを寄せた。


「……逃げてみたら、外で獄禍(こいつら)が暴れ回っていたんですよ。何体も」

「何体も……」


「こっちにはまだ一体しかいないし、運が良ければ源さんが何とかしてくれる。

 そう思って、こっちに“避難”してきたんですよ」


それを聞いた麟太郎の目が、ゆっくりと窓に向いた。

ガラスに映るのは、自分の蒼白な顔。


「……嘘、でしょ?」


時貞は、静かに首を横に振った。


「嘘じゃありません。

――ここが一番安全なんです」


麟太郎の手が、カメラを置いた。

レンズの赤いランプが消える。


「……じゃあ、ぼく、何をすれば」

声は震えていた。


時貞は、にやりと笑った。


外へは逃げられないと聞いて、さっきまでの投げやりな態度は消えていた。

カメラを置いた、麟太郎の顔色が蒼かった。


――◇――


それは、“嘘”から始まった。

だが、この夜から――誰も、どこにも逃げられなくなった。

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