【3】 絶望の硬度、希望の切れ味
床が――軋む。
壁の計器が、震える。
怪物は、無言で一歩、また一歩と進むたびに、
まるで空気そのものを押し潰すような圧を放っていた。
天井の蛍光灯が、低い唸りを上げて揺れる。
「ひ、ひぃっ……来てる来てる来てるぅっ!!」
時貞が鉄筋を構え直しながら、腰を引きずるように後ずさる。
その瞬間――源次が横から飛び出した。
両腕で、長い木製テーブルを持ち上げる。
筋肉が膨れ上がり、木が軋む。
「うおおおおっ!!!」
渾身の力で、テーブルを投げつけた。
鈍い衝突音。
木片が弾け、怪物の肩に当たって跳ね返る。
……だが、怪物はよろめいただけだった。
表情が、さらに恐ろしく――“怒り”を孕んだ何かに変わる。
「怒らさないでよ……顔が怖いんだから……」
時貞が情けなくつぶやく。
怪物の眼が、月光のように光った。
彼の目は、素早く室内を走る。
――二十畳ほどの解剖室。
右奥のステンレス台には、腹を裂かれ、両腕を失った“もう一体”の怪物が転がっている。
その背後では、カメラを構えた麟太郎が息を殺していた。
壁際には配電盤、天井のウインチに繋がる鎖が中央でジャリジャリと揺れている。
入口に転がる生首。血の海の中、日向が倒れている。
そのすぐそばに、首と両腕を失った胴体が突っ伏していた。
まるで、すべてが「戦場の舞台装置」だった。
時貞が指差す。
「博士、あの天井の鎖、何ですかっ!?」
「フグの解体と同じじゃ。吊るして立たせたまま切るための設備だ」
田辺博士が、あくまで冷静に答えた。
「……で、その手に持ってるのは?」
博士は、巨大なペンチのような器具で、鋭利な“平爪”を挟んでいる。
その先端が、蛍光灯を反射して青白く光った。
「ああ、これは――こいつの仲間の“右腕”についていた切断器具だ」
博士は軽く顎で示した。
部屋の右奥、“死んでいる方”の個体。
「石箱の中から出てきたやつから、引き剥がした」
「え……つまり、二体、入ってたんですか?」
「いや。石箱にいたのは、あっち一体だけだ」
時貞の眉がひそむ。
「じゃあ、こいつは……どこから来たんです?」
博士は短く息を吐いた。
「分からん。数も不明じゃ」
博士は、じりじりと間合いを詰めていく。
手にした金属のような平爪の刃は、まったく光を反射しない。
怪物は、まっすぐに源次を見据えていた。
人間の戦闘本能がそうであるように、
“脅威”を感じ取ったのだろう。
後方の時貞や麟太郎には、まるで目もくれない。
――《戦力にならぬ》と判断したように。
テーブルの上についていた金属性の平板を、軽々と振り回している。
その源次の後ろに隠れながら、時貞が声をかけた。
「博士、それで――何を?」
怪物が間近まで迫っていた。
「こいつの皮膚は異常なほどに硬い。だがな――」
博士は、目を細める。
「この“爪”は、同じく異常な切れ味を持つ。
つまり……“最硬”同士の試し斬り、というわけじゃ」
時貞の喉が鳴る。
「強靭な外皮か……それとも、同じ力を持つ刃か……」
「どっちが勝つか、ってことだな」
源次が低く呟いた。
「よっしゃ、いけぇぇぇぇっ!」
時貞が叫び、鉄筋を突き出す。
源次の背後から――勢いだけは勇ましい。
「ほれっ、ほれっ!」
「……教授」
「ほれっ、ほれっ、ほれっ……!」
「……教授っ!!」
「えっ?」
源次が怪物と対峙したまま、冷静に言い放った。
「届いてません。空気しか突いてません」
「……あ、ありゃ~~っ、すまんすまん……」
時貞は、照れたように頭をぽりぽり掻いた。
――そう、さっきから彼の攻撃は、ただの“掛け声エフェクト付きエア突き”でしかなかった。
源次にとっては、もはや邪魔以外の何者でもなかった。
そして、怪物の目にも、時貞は完全に「ノーカウント」な存在であるらしかった。




