【1】 覚醒するものと、狩られるもの
時貞は、扉を乱暴に押し開け、採集室へ飛び込んだ。
「な、何だ……!?」
室内の異様な光景に、一瞬で言葉を失う。
足元に転がっていたのは――生首だった。
一体目は、流し場でうつ伏せに倒れている。首がなかった。
「おえっ……!」
二体目は、採集物の散乱した割れたテーブルの上に仰向けに倒れていた。
腹部が大きく抉れ、内臓がこぼれ出ている。
「お、おええっ……!」
三体目は、石箱の中。泥水に塗れた体が沈み込んでおり、やはり首が無い。
ただ――その手には、しっかりと携帯電話が握られていた。
「おっ、おっ、おえええぇっ!!」
――見事な三連発だった。
そして時貞は、自分の足元にしたたかに胃袋の中身を吐き出した。
顔を上げると、壁という壁には血が飛び散り、石箱から採取された遺物が、血の海の中に無残に散らばっていた。
彼は、採集室に四つ並んだ蛇口の一つに駆け寄り、腰を屈めて口をすすいだ。
ふと横を見ると――首のない死体がひとつ転がっていた。
「うぷっ……」
思わずこみ上げるものがあったが、何とか堪える。
もともと彼は、血や死体を見るのが大の苦手だったのだ。
そのとき――
「ギョェーッ!!」
解剖室から、女性の悲鳴が響いた。
時貞の肩に、びくりと力が入った。
(確か向こうには、レポーターの白鳥碧がいる)―――時貞は思い出した。
*
時貞は身体を起こすと、洗い場の鏡の前で、長い髪の毛を後ろで束ね直した。
ランボーのように、ゴム紐を堅く絞めて、胸を張って振り返った。
鏡に映る横顔が、さっきまでの悲鳴を上げていた男ではなかった。
そこにあったのは、冷静で、静かに闘志を宿した、戦う者の顔―――時貞の中の“男”が、いま目を覚ましたのだ。
「――行くぞ」
彼は首なし死体を飛び越え、解剖室へ飛び込んだ。
――が。
「うわっ、あららぁーっ!」
勢い余って、怪物の真後ろまで突っ込み、足がゼリー状の液体に滑った。
ツルリ。
両足が宙を舞う。
その瞬間だった。
怪物の右腕が反射的に振り上がり、後方で鋭く、空を裂くように弧を描いた。
――部屋の空気が二つに割れた。
次の瞬間、時貞は背中から盛大に落下し、床に尻を思いきり打ちつけた。
「いってェ~~~!!」
――凄まじく格好が悪い。
空中で、彼の長い前髪が、二つに裂けて宙を舞った。
それはまるで、鎌鼬のように――鼻先すれすれを、何かが通過した証だった。
怪物は背を向けたまま、右腕の三枚爪――その外側にある、薄く鋭い平板が開いていた。
時貞の首は、まさに紙一重。あと少しで、胴体と永遠の別れを告げるところだった。
――だが、油断する間もなく、次の瞬間。
時貞のすぐ横にあった衝立が、〈スパッ〉という音と共に、上三分の一で水平に切断され――そのまま、真上から落ちてきた。
「うわぁっ!」
とっさに右腕で庇いながら、時貞は顔を上げる。
そのとき、目の前の大きな黒いシルエットも、こちらに振り返った。
背中だけを見ていたときは、「首の無い怪物」――そう思っていた。
だが今、こちらに顔を向けたその姿は――
なんと、胸の前に、大きな顔があったのだ。
金色に光る双眸。
歪んだ牙。
息を吸い込み、今にも咆哮を放とうとするような顔が、胸から生えていた。
「……獄禍!?」
――首なし武者。
時貞が、ずっと想像の中で描いていた“恐怖の象徴”が、目の前で具現化していた。
仁王立ちしているその姿は――
右手に出刃包丁、左手に生首を持ったナマハゲ、鬼そのものであった。
「ひぃえぇぇーっ!」
尻餅をついたまま、お尻を浮かせ、両手両足でジタバタと後退。
まるでひっくり返った蜘蛛。
そのまま床を滑りながら解剖室を転がり出た。
採集室へ転がり戻った時貞は、
手についたゼリーを壁にこすりつけながら、
魂が抜けたような顔で息を整えた。
解剖室にいた時間――わずか十秒。
だが寿命は十年縮んだ気がした。
「……死ぬ……マジで死ぬ……」
それでも、また走り出す。
解剖室とは逆――中庭へ飛び出す。
振り返る――怪物は追ってこない。
「……ふぅ……」
安堵した瞬間――
ドンッ!!
大きな影に正面衝突した。
「イタタタッ……!」
顔を上げると、胸板の厚い大男が立っていた。
髭をたくわえた――源次だ。
「源さん!」
源次は、倒れた時貞を片腕で軽く引き起こした。
「教授、どうしたんです!? 何があったんですか!」
時貞は震える指で建物を指した。
「か、怪物が……人を殺して……いま、中に……」
源次の眉がぴくりと動く。
手にしている拳銃の銃口で、後方を指した。
「警官が二人、その先で首を斬られてた。おそらく同じ奴だ」
その言葉に、時貞は青ざめた顔で叫んだ。
「げ、源さん! 戦車とか……無いですよね?!やっぱり現場には……」
振り返った源次の鬼のような顔に、時貞はビクッと肩をすくめ、言葉を飲み込んだ。
「教授は隠れててください」
少し呆れたような顔で走り出す。
「ば、バズーカとかも……!」
時貞のか細い声が背中に届いたときには、
もう源次の姿は、建物の中へと消えていた。
*
夜気がざわめく。
どこかで、時代の境界が軋んだ。
異なる時代が侵入し、この時代が怯えている。
――そしてここからが、本当の地獄の始まりだった。




