【2】 異形の臓器と、睨む六つの目
田辺博士は、その鋭利で大きな爪を見ながら考えていた。
―――五百年前に、この刃物で、何を切断する必要があったのだろうか?
―――こんな鋭利な爪を、何者がこの生き物に、細工をしたのだろうか?
あまりにも整った形。あまりにも明確な“意図”を感じさせる構造。
それは、単なる生物の一部とは思えなかった。
そのとき――
「博士っ!」
空気が破裂した。
静まり返った室内で、その声だけがいつまでも残響した。
叫んだのは、丹波だった。
あまりの剣幕に、田辺博士は思わず一歩あとずさった。
「博士、こ、これを見てください!」
慌てふためいた丹波の声は、いつもとはまるで別人のように裏返っている。
田辺博士が顔を上げると、ステンレスのテーブルの上――
開かれた“大きな胃袋のようなもの”の手前側で、振り返る丹波の蒼ざめた顔と視線が合った。
その目は、大きく見開かれ、明らかな動揺をたたえていた。
冷静沈着で知られる彼が、ここまで取り乱すとは――ただ事ではなかった。
田辺博士は、ゆっくりと彼の方へ歩み寄った。
丹波の背後、その影に隠れるようにして横たわっていたのは――切り開かれた、大きな臓器。
三つある“こぶ”のうちのひとつが開かれ、その中身が、わずかに外へ覗いていた。
博士は、そっと腰を屈めて中を覗き込む。そして――ハッと息を呑んだ。
その瞬間、彼の表情も凍りついた。
ふたりの、まるで亡霊でも目にしたかのような顔に、不安を覚えた日向が、恐る恐る逃げ腰で近づいてきた。
その視線が“それ”に触れたとたん――
「ぎゃあぁぁぁっ!」
あまりの衝撃に叫び声を上げ、後ずさった拍子に尻餅をついた。
床には、先ほどのゼリー状の液体が残っていた。
日向はその感触に悲鳴をもう一つ――いや、二つ、短く上げた。
麟太郎は、離れた場所から、三人の様子を邪魔にならないように撮影していた。
だが、ただならぬ空気――場を包む異様な緊張感を肌で感じた瞬間、ビデオカメラを構えたまま、思わず駆け寄っていた。
田辺博士と丹波は、切り開かれた臓器の前で、難しい顔を見合わせていた。
その表情には、明らかに混乱と困惑が滲んでいる。
日向はといえば、尻餅をついた勢いで手についたゼリー状の液体を、ぶんぶんと払っていた。
「……何か、出てきたんですか?」
異様な光景に、声をかけたのは、三人の背後から近づいた麟太郎だった。
別に大きな声を出すつもりはなかった――が、興奮が声に出てしまっていた。
「……これだよ」
田辺博士が、手にしていたボールペンの先で袋の皮をそっと引っかけ、慎重に中を開いてみせた。
中から漂ってくるぬるりとしたゼリー状の質感に、麟太郎は思わず身をすくめたが――それでも首を傾けるようにして、ゆっくりと袋の中を覗き込んだ。
そして、次の瞬間――
そのゼリーの中から――《《人間の生首》》が浮かび上がった。
まるで寒天の中に封じられた蝋人形のようだった。
目は大きく見開かれたまま、今まさにこちらを睨みつけている。
表情には生々しい怒気すら宿っていて、息をしていないはずなのに「生きている」と錯覚してしまいそうだった。
頭には、武士特有の髷が結われていた。
凛とした顔立ちには気品があり――由緒ある侍のようにも見えた。
「後の二つも……?」
麟太郎の問いに、田辺博士はゆっくりと頷いた。
「……もしかすると、処刑された者たちかもしれん。あるいは、生贄……?」
口にした自分の言葉に、自身でも薄ら寒さを覚える。
誰が、何のために、三つの首をこの袋に――?
だが、記録も、証拠も、この時代には何も残されてはいない。
やがて丹波が、残された二つのコブを取り出すべく、袋の切開に取りかかった。
しばらくの作業ののち――
五百年の時を封じられていた“もう二つの首”が、ゆっくりと現代の光の中に露出した。
袋の中で、うつむいたまま後頭部しか見えていなかった生首に、
丹波がゴム手袋をはめた手でそっと触れ、慎重に回転させて、こちらへ向けた――。
「……えっ!」
その瞬間、田辺博士、丹波、そして麟太郎の三人が、まるで息を合わせたように同時に声を漏らした。
そして、顔を見合わせる。
その驚愕の表情には、言葉にできない“何か”が刻まれていた。
それは――坊主頭に、堂々とした口髭。
わずかにギョロッとした目に、ふっくらとした輪郭。
その顔つきは、まさに歴史書や肖像画で目にした“ある武将”の顔、そのものだった。
丹波は、その首をゼリーごとテーブルの上に立たせ、正面をこちらへ向けた。
目は見開かれ、口は大きく開いている。まるで、今にも何かを訴えかけようとしているかのように。
誰ひとり、声には出さなかった。
しかしその瞬間、三人の脳裏に――同じ名前が、鮮やかに浮かんだ。
――武田信玄。
誰も疑わなかった。
ゼリーに塗れたその顔は、無言のまま、こう叫んでいたのだ。
―――《《わしが、武田信玄である》》。
……少なくとも、この場にいた三人には、確かにそう聞こえた。
手に付いたゼリー状の液体を、雑巾で拭きながら――
日向が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
三人の背後まで来て、肩越しにステンレスのテーブルの上を覗き込む。
そこで目にしたのは――目を見開き、こちらを見つめる《《三つの生首》》。
まるで晒首のように並べられていた。
「えええっ……な、なんなのよ、これ!?」
日向はまたしても、腰を抜かしそうになった。
カメラ越しにそれを記録していた麟太郎が、我に返ったようにぽつりとつぶやく。
「……でも、不思議ですね」
「ああ、不思議なことばかりだ。なぜ信玄公の首が……」
丹波が首を見ながら言いかけたとき――
「いや、それよりも」
田辺博士が、静かに言葉を割って入った。
「この首が、五百年を経た今でも――腐らず、溶けもせず、こうして残っていることのほうが、よほど不思議だ」
確かに、三つの首にはまだ艶のある肌が残っていた。
目は濁らず、血液も、全く凝固していない。
まるで――今もなお、それは息をしているかのようだった。




