【4】 解剖室、異形の胎動
諏訪湖は、静寂の闇の中にすっぽりと沈んでいた。
石箱を照らすライトの明かりで、湖面にわずかに揺れる波が、かすかにきらめいている。
遠くの山影も黒く溶け、空には鈍くまたたく星の群れが、水面の延長のように広がっていた。
その石箱のすぐ脇――作業員宿舎の裏手。
仮設トイレの並ぶ暗がりで、現場責任者・羅生門 源次は、
ひとり煙草をふかしていた。
紫煙は、ドアの隙間から夜気へ抜け出し、やがて、湖の方角へと消えていった。
*
古代生物学者・田辺博士たちは、解剖室で作業を続けていた。
傍らでは、カメラマンの麟太郎が無言でビデオを回し、
額には細かな汗が浮かんでいる。
鉄筋で強化された柱――それに続く天井から垂れ下がる鎖。
フグのように吊り下げたまま調査できるよう、
あらかじめ備えられた設備だった。
まるで――“異形”が現れることを、
誰かが最初から知っていたかのように。
金属台の上に横たわる“それ”は、
熊にも、ワニにも似ていた。
だがどちらでもない。
体長は二メートルをゆうに超え、
毛一本ない皮膚は、硬く、黒く、鈍く光っている。
腐敗の兆しは一切ない。
死んでいるはずなのに――まるで、まだ“保たれている”ようだった。
その頭部の位置が、まずおかしかった。
首の上ではなく、肩と肩のあいだ。
胸の中央から、前へ食い込むように突き出ている。
まるで、猫背のせむし男が顔を突き出しているかのようだ。
肩は異様に盛り上がり、
首のあるべき場所には、ぽっかりと深い窪みとなっていた。
両腕は長く、膝に届くほど。
熊のように太い脚は短く、
それでも――二足歩行が可能だったと、博士は判断した。
左手の指は三本。
短く太く、先には鋭い爪。
足の指は四本。
地を掴むような形をしている。
だが、右腕だけが違っていた。
肘の先から金属質のカバーに覆われ、
三枚の爪状の板が組み合わさって、
右手を覆うようにぴたりと閉じられている。
――その内側に何があるのか、誰にも見えない。
麟太郎のカメラが低い位置から徐々に死骸をパンしていく。
――顔は、恐ろしく静かだった。
目は閉じ、鼻は低く広く、口は大きく開いている。
上下の歯列には、びっしりと鋭い牙。
とくに、下顎の両端から突き出す二本の牙は、
まるで獣の“印”のように鋭かった。
耳は頭の上部から、コウモリのように逆さに垂れ、
顔には――まるで皮膚が縮んだように、皺が額から頬にかけて幾重にも走っていた。
体には三本の矢が突き刺さっていた。
二本は朽ちて、鉄の鏃だけが残る。
だが、左脇の下に深く刺さった一本だけは、
いまも肉の中に沈んでいた。
その矢こそが、唯一の致命傷に見えた。
田辺博士は、その右腕を凝視した。
生物としての構造が、あまりに奇妙だった。
まるで人の手を、外殻で覆い、封印したような――。
「……右腕の中を、見なければならないな」
そう呟いたとき――
「博士! これを見てください!」
丹波の声が響いた。
怪物の頭部を調べていた彼が、手元を指さす。
田辺博士は歩み寄り、身を屈めた。
「どうした?」
「ここです。耳の後ろに――」
博士は目を凝らした。
その“耳”の後方に、小さな丸い穴が開いていた。
まるで、それは機械の部品のように滑らかだった。
肉の孔ではない。
何か――“人工の構造”だった。
彼は眼鏡を外し、
ハンカチでレンズを丁寧に拭くと、
再びかけ直した。
胸ポケットから取り出したペンライトをくるりと回し、
その小さな孔に光を差し込んだ。




