【2】 朝焼けに煙る、名ばかりの宝
碧は本線に戻ると、車線を中央寄りにとった。
ギアをトップへ――アクセルをぐっと踏み込む。
ポルシェ959。
リアが沈み込み、ツインターボ独特の吸気音が唸りを上げる。
――ヒュオォォォォン!!
まるで空を飛ぶような加速。
強烈なGに、碧の細い身体がシートに張り付いた。
――◇――
短いトンネルをいくつか抜ける。
助手席に転がっていた缶コーヒーに手を伸ばす。
左手でハンドルを押さえ、右手でタブを引く。
カチン。
タブを指に引っかけたまま、その手に缶を持ち替える。
一口、流し込む。
サングラスの縁が、缶にコツンと当たった。
カーショップで取り付けてもらったカップホルダーを引き出し、缶をそこへ置く。
ルームミラーを上目使いに覗く。
夜はすっかり明けていた。
それでも、車の数はまだ少なかった。
碧は白いワンピースのポケットから、さっき買った煙草の箱を取り出した。
ビニールを剥がし、一本くわえる。
(あの若い子には……ちょっと悪いこと、しちゃったかな)
ふ、と自嘲気味に笑う。
だがすぐ、眉をひそめた。
(……でも。こっちは売れっ子レポーターよ?
有名人の私を、誰とも知らずにナンパするなんて――最低)
……怒ってるのそこかい。
カチッ。
シガーライターを引き抜き、煙草の先に押し当てる。
火がついたのを確認して、ふぅと煙を吐き出した。
ルームミラーを覗く。
横顔に、わずかな不安が差していた。
(さっきの暴走族……追いかけてきたりしてない?)
あのときは人目があったから抑えていた。
でも、ああいう連中は――根に持つタイプも多い。
しかも、最後にあのフルフェイスの男が片手を上げた仕草。
(……あれだって、取りようによっては、
「あとで仕返しに行くから待ってろよ」って意味だったかも)
それは冗談ではなく、本気の警戒だった。
そんな想像が、煙草の苦みを少しだけ濃くした。
――◇――
河口湖方面と、松本方面への分岐案内が見えてきた。
碧はハンドルを軽く切り、松本方面へ進路をとる。
そのとき――。
プルルルル……。
センターコンソールの車載電話が鳴った。
煙草を灰皿に押しつけ、碧は受話器を取る。
「もしもし。……麟太郎だけど、碧ちゃん?」
チャンネル9専属カメラマン、風見麟太郎の声だった。
「ええ、どうしたの?」
「碧ちゃんがまだ現地に着いてないから、局の上が心配しててさ。
“とにかく電話して確認しろ”って指示されたんです。で、今どこ?」
「……今ね――ディズニーランド。
開門待ちの駐車場で、彼氏の腕枕の中で居眠りしてるとこよ」
受話器の向こうで、小さなため息。
「……頼みますよ、碧ちゃん。今世紀最大の報道ってことで、
こっちは局内ピリピリしてるんです。みんなの首が掛かってるんですから」
「ほんとの話よ? もうレポーターなんか辞めようと思ってるの。
こんなに酷使されてたら、嫁入り前の大事な身体がボロボロよ。
ほんと、労災認定してもらいたいくらいだわ」
「はいはい、わかりましたって」
麟太郎の声が、少し食い気味にかぶさってくる。
「……で、結局、今どこです?」
彼にとって、碧は完全な“ドル箱”だった。
指名されてさえいれば、食いっぱぐれることはない――それが現場のリアルだった。
一呼吸置いて、碧はニヤリと笑った。
「ふふふ。大月を越えたあたりよ。あと一時間ちょっとで着くと思う」
「助かります。
七時から打ち合わせが始まるんで、何とか間に合わせてくださいよ」
「了解。で、石箱の引き上げは何時?」
「えーと……九時からです」
「九時ね」
碧は復唱しながら、左ウインカーをカチッと押し込む。
ピカ、ピカ――点滅するランプに合わせ、車線をゆっくり移動させた。
風見麟太郎――三十二歳、独身。
腹は少し出ていて、眼鏡の奥にはまん丸の目。
愛嬌はあるが、どこか胡散臭さも漂う。
いつか“スクープ一発”で名を売りたい。
世間をざわつかせるスキャンダラスな映像を――。
そんな野望を胸に、今日もカメラを回していた。
白鳥碧と組んでいるのも、もちろん計算ずくだ。
“ドル箱”の彼女に振り回されようが、指名がある限り仕事は切れない。
ご機嫌取りも、“将来への投資”と割り切っていた。
「じゃあ、運転にはくれぐれも気をつけてくださいよ。
―― 碧ちゃんは、テレビ局の宝なんですから」
「はいはい。……じゃあ、トンネルに入るから切るわね」
プツッ。
電話が切れた直後――
車はゴォォ……と音を立て、笹子トンネルに吸い込まれていった。
碧はヘッドライトを点けた。
黄みがかったオレンジの照明が、車内をゆっくりと流れていく。
ルーフの影が、天井からフロアへ――
ストライプ模様のように揺れた。
ゴォォォォ……。
トンネル特有の反響音が、車体を包む。
缶コーヒーに手を伸ばしながら、碧は鼻で笑った。
(わたしが、“局の宝”ねぇ……)
だが、その横顔は――
まんざらでもなかった。
――◇――
その時、彼女はまだ知らなかった。
“名ばかりの宝”が、血で輝く翌朝を迎えることになるなんて――。




