【5】 首のない時代と、混迷の戦国
「元亀三年(一五七二年)に入ると、
――“首のない大きな荒武者”が、武田領内を荒らすようになった。」
時貞が、静かに資料の一節を読み上げた。
「首なし!? え、ホラーじゃん……」
一織が眉をひそめ、資料を覗き込む。
「それがね、武田家の記録に何度も出てくるんだ。
しかも、時期的には信玄の“西上作戦”とぴったり重なってる」
「“西上作戦”……って?」
「甲斐・信濃を拠点にした信玄が、西の京都へ進軍して、上洛を狙ったんだよ」
「……つまり、“京を制圧して、オイラが天下取ったぜぇ!”ってやつ?」
一織が肘でつついてくる。ふざけた口調とは裏腹に、目だけは真剣に年号を追っていた。
「うん、まあ……そんな感じ」
時貞が苦笑しつつ、ページをめくる。
「武信玄ちゃん、頑張るぅ~」
「……“ちゃん”は、やめようか」
時貞が目を伏せて首を振る。
「ちゃん付け、アウト?」
「うん。ちょっと、イメージが」
「わかったぞい」
「……ぞい?」
「ぞい、可愛いでしょ」
「……まあいいや」
時貞は軽く笑い、再び資料に目を落とした。
「信玄は、元亀三年の十月――上洛、つまり京都を目指して甲府を出発した」
「JRで?」
「ちがう。馬と徒歩」
「そっか。時刻表ないもんね」
時貞は思わず吹き出しかけて、咳払いをした。
「でも、なんで十月? これから冬になるのに、馬で移動って寒くない? ……わざと?」
「それが戦略なんだ。冬は農閑期で兵を動員しやすいし、雪で動けなくなる、後方の上杉謙信を封じておける」
「おお~……武信玄ちゃん、地味に策士ぃ~。で、それから、どうしたんだぞい? ……ぞいっ」
十九歳になった今でも、一織にとって時貞は“お兄ちゃん”のような存在だった。
ふざけて絡むその裏には、“もっともっと話してよ”という、幼い頃の静かな甘えがあった。
「……はあ」
時貞は大きく息を吐くと、少し疲れた顔で説明を続けた。
「信玄は上洛のため、織田・徳川連合軍を避けるために、信長の妹を妻にしていた浅井長政や、その後ろ盾だった朝倉義景と同盟を結んだ。
さらに、“お飾り将軍”と呼ばれていた足利義昭とも、密かに通じていたと言われてる」
「ってことは、武信玄ちゃんの敵は――後ろに上謙ちゃん、前に織田&徳川のツートップ。
味方は浅井くんと朝倉くん、それに京都のお飾り義昭くん。
よっしゃ、三対四の乱世バトル――だ、ぞい!」
一織は両手で人数を数え、満足げに頷いた。
「一織、……くんも」
「えぇー。でも浅井くんって、うちのクラスにもいるし」
「関係ないから」
「鼻の穴が大きくて……」
「やめなさい」
ツッコミ疲れた時貞は、手を振って続けた。
「その後、信玄は初戦を制し、二俣城を攻略。
三方ヶ原で織田・徳川連合軍を打ち破った」
「えっ、あのラスボス織田くんが!? 武信玄ちゃん強すぎ……なの!?」
「いや、信長本人はそのとき北近江で浅井・朝倉と戦ってた。
だから三方ヶ原にはいなかったんだ」
「そっか、いなかったんだ、ぞい」
すっかり“ぞい”が気に入ったらしい。時貞は諦めて続きを口にした。
「信玄は東三河の要衝・刑部に陣を張り年を越した。
翌・元亀四年(天正元年)の正月、野田城を包囲した。
ちなみに、信長が『元亀』という年号を嫌って、この年の途中で『天正』に変えたんだ」
「……天正元年って、あの“石箱”が沈められた年?」
一織が小声で問う。
「そう。天正元年四月十五日。武田家によって、石箱が諏訪湖に沈められた」
「ここで繋がるの……?」
二人の間に、わずかな沈黙が流れた。
「でもさ、織田くんが、“元亀”が気に入らなかった理由って何?」
「信長らしいけど、“のろま”とか“遅い”って響きが嫌だったんじゃないか。
“亀”って、イメージ的にね」
「わかる。もし“ナマケモノ元年”とかだったら、私も全力で変える」
「そんなの無いよ」
「でも“もとかめ”って、やる気ゼロ年号って感じするもん」
「もとかめ(元亀)……」
「で、その正月に野田城を攻めたってことは、武信玄ちゃんが家を出て三か月後くらい?」
「そうなるね」
一織の頭の中では、歴史というパズルが少しずつ形を成していた。
「ふむふむ。で、その野田城って、誰んち?」
「家康」
時貞も、大分面倒臭くなってきた。
「出た、康くん。NHKでよく見るやつ。ぽってり系徳川男子!」
「……時代を跨いでバカにしてないか」
「してない、してない。
――でもさ、織田くんが“元亀イヤ”って言うなら、康くんは逆に“推し”そうじゃない?
“俺は、カメでも地道に進む派です”みたいな」
「なんで、最後、声低くしてんの?」
「俺は、カメでも地道に……」
「もういいって。声落としても、似てないから」
「そっか。……で、その後はどうなったんぞい?」
「野田城は五百の兵で守っていたけど、信玄の三万の軍勢が攻め落とした。
元亀四年(二月)のこと。続いて翌三月には長篠城を攻略。
信玄はそこを拠点に改修して、三河侵攻の足場を固めたんだ」
「三河ってたしか……カメキャラの康くんのホームじゃん!もっと、康くん頑張んないと」
「たしかに三河には、家康の本拠地・浜松城がある」
と、時貞は小さく頷いた。
「だけどアウェイでそれって……武信玄ちゃん、もうバグってるレベルで強いじゃん!
このまま行っちゃうよね。――京へ」
「いや」
時貞の声が、少し低くなった。
「――信玄は、ここで突然、不思議な行動に出るんだ」
「不思議な行動……?」
一織が、真面目な顔で身を乗り出す。
「もう少しで康くんをやっつけられるってときに?
武信玄ちゃんのその“謎ムーブ”、いったい何だ――ぞい?」
やっぱり最後には、どうしても“ぞい”をつけたかったらしい。
*
天正元年二月――
信玄は、野田城を落とした。
翌三月には、勢いそのままに長篠城を陥落させる。
長篠に足場を築き、次に狙うは家康の本拠・浜松城。
誰もが、武田の快進撃は止まらないと信じていた。
しかし、そこで――
決断を迷う時代が、その武田信玄の足を止めた。




