【4】 石箱開封、静かなる臨界点
──二十一時三〇分。
石蓋が、**ぎぎ……ぎしり……**と軋む音を立てながら、ゆっくりと持ち上がっていく。
油の焦げたような匂いが空気に滲み、鎖がわずかに震えていた。
その動きに合わせて、採集室の空気がぴたりと止まる。
誰もが息を潜め、目の前で起きている光景に見入っていた。
ついに石蓋が完全に持ち上がると、林が合図を送り、奥で東峰がスイッチを切った。
モーター音が途絶える。天井から垂れた四本の鎖は緩むことなく、蓋を空中に水平に固定した。
その下に現れたのは、泥水で満たされた箱の内部だった。
引き上げ時の振動で水は大きく濁り、数センチ先すら見通せないほどに暗く沈んでいる。
統括責任者・水篠物産の部長・東峰 隆造、四十八才が、無言で歩み出た。
眼鏡の奥の視線は鋭く、フレームに落ちた蛍光灯の光が、まるで警告灯のように反射している。
両手にはすでにゴム手袋がはめられていた。
「博士、水を抜く必要がありますね」
短く言う東峰に、隣の古代生物学博士の田辺 広信、五十二才が静かに頷く。
その瞬間――
発掘係の林が、無造作にごつい手を箱へ入れようとした。
「ちょっと、待って!」
鋭い声が飛んだ。助手の丹波三郎、四十四才だった。
その剣幕に、林は思わず手を引っ込める。
「中には、触れただけで崩れるものもあるかもしれません。慎重にやってください」
林の胸元にも届かない背丈の丹波が、ピシャリと一言。
林 道夫、二十八才。
元ラグビー部の巨体が、叱られた小学生のように肩をすくめ、ぺこりと頭を下げた。
一瞬だけ場が和み――だが、東峰の無言の一瞥で再び空気が張り詰めた。
東峰の指示を受け、林と山本が作業員宿舎へ駆け出す。
しばらくして、二人は黄色い筒状の電動ポンプを抱えて戻ってきた。
賀寿蓮組から借りた、泥水対応の強力なポンプだ。
ポンプをロープでしっかり縛り、林はその端を手に持ち、箱の縁へと慎重に近づいた。
「気をつけるように」
東峰が低く声をかける。
それは地面と同じ高さに見えても、箱の中は二メートル以上の深さがある。
不用意に沈めれば、底にあるかもしれない貴重な遺物を損なう恐れがあった。
林は太い腕でロープを握り、ポンプをゆっくり水面へと沈める。
濁った泥水のせいで中は一切見えず、まるで底までわずか三〇センチしかないような錯覚に陥る。
だが実際には、自分の背丈より深い“沈黙の落とし穴”がそこに口を開けていた。
息を殺しながら、慎重にロープを緩めていく。
ポンプの筒先が泥水の中に沈む。
「始めます!」
林が声を上げ、電動スイッチを入れた。
直後、ポンプの振動が床を伝い、水面が細かく波打ち始める。
同心円状の波紋が幾重にも広がり、その中心に静かな興奮が漂った。
このポンプはアメリカ製の特注品で、小型ながら吸引力は圧倒的だ。
水とともに、砂も、泥も、場合によっては小石さえも巻き込む。
オレンジ色の太い排水ホースが唸りを上げ、水を勢いよく吐き出した。
その先端には、元柔道部の山本 誠、二十七才が取り付けた細かいネットが張られている。
大柄な身体をややかがめ、彼はホースの動きを凝視していた。
東峰もその横で腕を組み、黙って作業を見守る。
――泥水以外の“何か”が出てきたら、即座に回収しなければならない。
林は箱の縁にしゃがみ込み、水位が下がるたびにポンプを少しずつ沈める。
その動作を、まるで呼吸を合わせるように繰り返した。
ポンプが小刻みに震え、水面に波紋が幾重にも広がる。
その少し後方、部屋の壁際に、レポーターの碧の姿があった。
彼女はマイクもメモも持たず、ただ壁にもたれたまま、黙って作業を見守っていた。
まるで、いまこの場の空気に言葉を差し挟むことを躊躇しているかのように。
田辺博士のもう一人の助手、日向 陽子、三十六才は、折りたたみ椅子を抱えて現れ、
箱から少し離れた場所に腰を下ろした。
無表情のまま煙草をくわえ、静かに火を点ける。
その仕草ひとつで――この作業が“時間と根気の戦い”であることを物語っていた。
一方、丹波は箱のすぐ脇で腕を組み、しゃがむ林の横からじっと泥水を覗き込んでいる。
落ち着かぬ視線が、作業の一挙一動を追っていた。
室内の一角では、カメラマンの麟太郎が、手早くVTRのバッテリーを交換していた。
彼の動きだけが、わずかに空気を揺らしている。
周囲が水抜き作業に集中しはじめる中――
田辺博士は、誰にも告げずにそっと立ち上がった。
そして、採集室の左手にある小部屋――“解剖室”へと静かに歩を進めていく。
そこは、泥の中から出た物体を検分するための専用スペースだった。
棚にはホルマリン漬けの標本瓶が並び、壁際には最新のレーザーメスや解剖用器具が、
蛍光灯の光を受けて無機質に光っている。
それらはすべて、田辺研究所から運び込まれたものだった。
田辺は無言で椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
だが、その横顔にはどこか落ち着かない影がさしている。
――ポンプの唸りも、誰かの足音も、いつの間にか消えていた。
それはまるで、この先に起こる“何か”を予兆するかのような、不穏な沈黙だった。




