【3】 古文書に眠る鬼・獄禍
プレハブ造りの本部棟、その最奥――
「歴史考古学調査室」と名付けられた一室で、時貞と一織は古文書の解読作業を続けていた。
松本市の旧家の土蔵から発見された、あの七冊の古文書。
五百年の眠りを経て、今ふたたびその頁が、静かに二人の前で開かれていた。
時貞は、慎重にその内容を読み解きながら――
石箱がなぜ諏訪湖に沈められたのか。
そこに何が封じられているのか。
そして――その行為に込められた“理由”を明らかにしようとしていた。
どんなものが箱の中から現れようと、それをただの“偶然”や“伝説”では終わらせないために。
確かな裏付けを、この手で掘り当てなければならなかった。
時貞は紙コップのアイスティーをひと口飲み、向かいの一織を見る。
一織は、椅子に寄りかかりながら大きなあくびをひとつ。
眠そうな目をこすりながら、ちらりとこちらを見やった。
ここ数日――
二人は、ほとんど眠らずに、この作業に没頭していたのだった。
――◇――
「元亀元年。京の都で“獄禍”と呼ばれる鬼が暴れた、という記述がある」
時貞は静かに読み上げた。
それは、箱とともに発見された文書の中でも、最も古い一冊。
武田信玄の資料よりもさらに古い筆致、明らかに別系統の書だ。
「鬼の獄禍?」
一織が眉をひそめる。
「ああ。比叡山の僧たちがこれを退治した、と書かれている」
「鬼って……河童とか人魚みたいな想像上の生き物じゃないの?」
そう言って、一織は額に指で角を作る。
「一織の鬼は、ずいぶん可愛いね」
時貞は小さく笑い、ページをめくった。
「でもさ、恐竜やマンモスがかつて実在していたように――鬼や竜も、全くの作り話とは言い切れないと思わないか?
現実にその“生き物”がいたかどうかはともかく、何かしらモデルになった存在や、似た姿をしたものがいても不思議じゃない」
「うん……」
一織は微妙な表情を浮かべながら、曖昧に頷いた。
「すべて人間の想像だけで生み出したにしては――鬼って、あまりにも完成されすぎてるとは思わないか」
時貞が、ふと呟くように言った。
「ジュゴンが人魚のモデルだったみたいに?」
「そう。たとえ実物が存在していなくても、“それっぽい何か”がモデルとして存在していた可能性はある」
「じゃあそれが……大昔の京の都で暴れていたってわけね」
一織は腕を組み、思案顔を見せた。
*
「そう。そして、ここからが面白いんだ」
時貞の声が、少しだけ熱を帯びる。
「確か、武田家の資料の中に、“鬼”の字がついた名馬が出ていた」
彼は、机上の分厚い歴史辞典を手繰り始めた。
ページをめくる音だけが、部屋の静寂を切り裂いていく。
「鬼の字?」
やがて時貞の指が止まった。
その先――武田信玄の父・信虎の項目に、目が吸い寄せられていた。
「……天文二年。春信――つまり信玄が十三歳のときだ。
彼は、父の秘蔵だった名馬『鬼鹿毛』を所望している。
元服しても、武田家に代々伝わる御旗や“盾無の鎧”といった家宝は、家督を継ぐときに頂くべきだと断った。
だが――鬼鹿毛だけは、執ように懇望したとある」
「十三歳で? しかも鬼の名の馬?」
一織がページを覗き込む。
「“鬼鹿毛とは、宇治川の先陣争いで有名な風見高綱の『生月』、藤原景季の『摺墨』にも劣らぬ駿馬である”――と、ここにある」
時貞は指で文をなぞった。
「十三歳の春信は、家宝よりも“鬼の名を持つ馬”を欲した。
父・信虎はそれを許さなかった。……おそらく“文字”にこだわりがあったんだ」
「文字に、こだわり?」
「ああ。たとえば、武田の重臣たち――山県、馬場、内藤。
彼らの名にはすべて“虎”の字がある。これは信虎が与えた字だ」
「へぇ……“虎の家臣”か」
一織は小さく笑い、眠そうな顔で資料を見下ろした。
時貞はふっと笑って言う。
「つまり信虎は、“虎が鬼に乗る”ことを理想としていたのかもしれない」
「つまり、信玄パパァって、“虎を従える鬼”が最強ってことね!」
一織は手を広げ、妙に楽しげに言った。
「戦国バトルアニメだったら、ラスボス確定よね!」
「……ぱ、ぱぁ……」
時貞は苦笑いしながら、何度か首を横に振った。
「……てか、戦国時代って、“パパァ”って呼んだら、即切腹とかないよね?」
一織が不安そうな顔で時貞を見た。
「いや、一織が武田家に生まれてたら、三日で縁側送りにされてる気がする……」
時貞はため息をつき、気を取り直して言った。
「たぶん信虎は――昔、京で暴れた“鬼”を実際に見たか、あるいは“鬼”の強さを耳にしていたんだろう」
「それ、有り得るよ! だって武田家の記録に“鬼”が出てくるくらいだもん。
一番偉い“信玄パパァ”が知ってても全然不思議じゃない!」
得意げな一織に、
「……ぱぱぁ、ねぇ……」
時貞はもう一度、小さく首を横に振った。
*
――だが、この夜、彼らはまだ知らなかった。
架空の鬼――“獄禍”という名が、まもなく現実になることを。




