【2】 封印と浮力と、凧とロマン
――水篠物産本社。
諏訪の街を見下ろす高層ビルの最上階。
会議室の大きな窓ガラスを、午後の湖面がきらめきながら揺らしていた。
時貞は、眼下に広がるその風景を静かに眺めていた。
背後では、スーツ姿の重役たちが椅子をきしませ、緊張を孕んだ空気の中で息を殺している。
「神童教授は――本当に、諏訪湖に“石の箱”が沈んでいるとお考えなんですね?」
営業部長・岩城の低い声が、テーブルの上を這った。
「ええ、間違いありません。」
時貞は視線を外の湖面から戻し、穏やかな口調で答える。
その横で、助手の一織は、不安げに時貞の横顔を見上げる。
「古文書には、天正元年四月十五日――“沈めた”と明記されていました。
あの家の祖先は武田家の家臣。設計にも関わっていた可能性が高いのです」
会議机には、配布された古文書のコピー。
だが、墨の走るその文字は、草書の連なり。
まるで風が書いたような難解な筆致に、解読できる者など誰ひとりいなかった。
そこで、時貞は“現代語訳”と“読み下し文”を付けた別冊を添えていた。
その几帳面な構成は、教授というより学術探偵のようだった。
「……では」岩城が前屈みになる。
「どうやって湖の真ん中に、あの巨大な石箱を運んだのです?
その方法は、資料にあったのですか?」
「いいえ」時貞は即答した。
「その記述だけは、残念ながらどこにもありません」
「では、神童教授はどうお考えに?」
岩城の声は、質問というより挑発に近かった。
時貞は、一拍おいて――穏やかに微笑む。
「……では、あなたならどうしますか?」
まるで、知恵比べを楽しむような口調。
その余裕が、逆に岩城の神経を逆なでした。
「そうですね、私なら――大型のヘリコプターを何機も飛ばして、上から吊るすかな」
時貞は頷き、「なるほど」と静かに呟いた。
岩城部長はすぐに自分の言葉を打ち消すように、
「もっとも、戦国時代にはヘリコプターどころか、あの時代に飛ぶ物といえば、せいぜい凧くらいなものだろうが」
と、苦笑まじりに自らの提案をシュレッダーにかけた。
すると、窓際に座っていた若い社員・鈴木正が、ぽつりと言った。
「じゃあ……すごく大きな凧で持ち上げて、湖の真ん中まで運んで沈めたとか?」
岩城部長は、鋭い視線で鈴木を睨んだ。
だが、出席者全員が反対派というわけではなかった。
太古のロマンや、ミステリーの謎に心を躍らせる気持ちは、誰の胸にも少しはあるのだ。
「……面白い発想ですね」
時貞は、鈴木の方を見て静かに微笑んだ。
その瞬間、空気がふっと変わった。
光の角度のせいだろうか――時貞の横顔が、まるで彫刻のように際立つ。
鈴木は、息を飲んだ。同性なのに胸の奥が、わずかに跳ねる。
(……なに、今の)
自分でも理由は分からない。
ただ、視線を返すことしかできず、思わず、ぎこちなく会釈を返した。
だが――
その空気を断ち切るように、岩城部長の声が鋭く響いた。
「君、名前は?」
突然の指名に、鈴木はびくりと肩を震わせた。
「あ……鈴木です。販売部二課の鈴木正です」
「鈴木くん。今は夢物語を語っているわけじゃない。
我が社が“たかが湖泥掘り”に、数億の出資をするか否かという――現実の話をしてるんだ。
君には、わかるかな?」
低く押しつけるような声。
会議室の空気が、一気に冷えた。
鈴木は唇を少し尖らせ、俯いた。
そんなやり取りを横目に、時貞は天井を見上げながら、指をくるりと回していた。
「そうか……おっきな凧に吊って、風に乗せて、湖の真ん中まで運んだ。
――なかなか風情がありますね」
その声は静かだったが、どこか楽しげでもあった。
飄々としたその笑みが、張りつめた空気に小さな波紋を落とす。
部屋の奥では、水篠会長が椅子に凭れ、腕を組んだまま、どこか愉快そうにその様子を眺めていた。
*
「神童教授、今は現実の話を――」
岩城部長が言いかけたところで、時貞が静かに口を挟んだ。
「ええ、承知しています。
芸術的には美しくても、現実には不可能です。
とても、凧で持ち上がるような重量ではありませんから」
その落ち着いた声に、岩城部長も小さく頷いた。
一瞬、論の流れが整ったように見えた。
……だが、時貞はそのまま言葉を続けた。
「岩城部長。他に何か、考えはありませんか?」
静かな口調のまま、しかし“挑むような余白”を滲ませる。
岩城は、大袈裟にため息をひとつ落とした。
(まったく無駄なやり取りだ。若い教授など、相手にするだけ時間の浪費だ)
その時――
「……あのー」
会議室の隅から、おずおずと声が上がった。
またしても、鈴木だった。
「湖に向かって太い木がせり出していれば……
それに縄を掛けて、石箱を縛って……大勢の農民たちで吊り上げた、なんて……どうでしょうか」
岩城部長は、すぐに鋭い横目を送った。
「そんな頑丈な大木がどこにある。
あったとしても、その根元の地面ごと崩れて終わりだろう」
吐き捨てるような声。
その瞬間、場の空気がわずかに凍りつく。
――だが、時貞が柔らかく笑った。
「鈴木さんの発想は、面白いですね」
思いがけず優しい声。
鈴木は一瞬きょとんとして、頬を赤らめながら小さく会釈を返した。
「ただ、諏訪湖はご存じの通り高台の湖。
周囲は諏訪盆地ですから……残念ながら、石箱を吊れるような巨木は生えていません」
柔らかな物腰とは裏腹に、返答は鋭く現実を突いていた。
その温度差に、会議室の空気がまた少し張り詰める。
鈴木は曖昧に頷きながら、視線を泳がせた。
(――この人、味方なのか敵なのか、どっちなんだ……)
*
岩城部長は、これ以上は話しても無駄だと言わんばかりに首を振った。
その動作には、半ば勝ち誇ったような確信が滲んでいた。
「神童教授の資料によると、あの岩盤でできた箱は全長二〇メートル――とんでもない重量です。
赤壁の戦いの曹操軍のように、木造船を何艘も連ねて浮かべるとか、
岸から岸へ丈夫なロープを張って吊るして移動するとか……。
どれも現実的ではありませんね。――神童教授、もうこれ以上は、止めましょう」
その語気には、若い学者を封じ込めるような圧があった。
だが、時貞はふっと表情を引き締め、
右手を軽く上げて「待て」とでも言うように、静かに制した。
「少々お待ちを、――岩城部長」
声は静か――だが、確かに空気を切り裂く。
「あなたは、あの石箱が“どうやって湖のほとりまで運んで来たか”については、
疑問に思わないのですか?」
その声は静かだった。
岩城部長は、呆れて立ちかけた腰を渋々と椅子へ戻し、眉をひそめながら応じる。
「ええ、それも少しは引っかかりますが……遠くから巨大な石を運び、ピラミッドを築いたエジプト人もいます。
地上であれば、丸太を敷き、油を使って大勢で転がす――それなら、昔の人間にも不可能ではなかったでしょう」
「その通りです」
時貞は、微笑んだ。
追い詰められた様子など微塵もない。
むしろ、柔らかな笑みの奥に“確信”を感じさせる――その表情に、会議室の空気が一瞬で張り詰めた。
奥の席では、水篠会長が腕を組んだまま、目尻を下げてその様子を見つめていた。
「……はあ?」
「岩城部長が言った通りですよ」
「だから、何が――!?」
岩城の声に苛立ちが滲む。
時貞は平然としたまま、まるで講義の続きをするように語った。
「昔の人たちは、丸太や油を使い、押したり引いたりした――そう言いましたよね。
……もっとも、あの石箱の場合は、丸太も油も要らなかったのかもしれませんが」
「はっははは……!」
岩城部長は吹き出し、手を叩いて笑った。
「なるほど、それがありましたか。石箱を――船のように浮かべて運んだ、と!」
「ふふっ。それで納得していただけますか?」
「ええ、納得ですとも」
岩城は一つ頷いた。
……が、次の瞬間、眉間に深い皺を寄せ、顔を跳ね上げた。
「――何処の世界に、石箱や泥船が水に浮くっていうんですか!
いい加減にしてください!」
怒気を帯びた目で、真正面から時貞を射抜いた。
怒鳴られて、時貞はぽかんとした顔で隣の一織を見た。
しかし一織は、視線を感じつつも目を逸らし、黙って下を向いていた。
*
時貞は、ゆっくりと顔を元に戻すと、
「いつ私が、“船のように浮かせた”と言いましたか?」
と、穏やかな声で切り出した。
「私は――湖の上を、“押したり引いたりして”運んだと言っているんですよ」
その静けさに、逆に会議室の空気が凍りつく。
岩城部長は、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出してから、もう一度問い直した。
「……つまり神童教授は、“押したり引いた”のだと?」
「ええ」
「湖の上を、昔の人が、押したり引いたりできたと?」
「そうです。――現代では無理ですが、昔の人には、できたのです」
時貞は、顎を上げて断言した。
その瞬間――
誰も、息をしなかった。
午後の光がきらめき、湖面の反射が壁をゆらめかせる。
何かが、ほんの少しだけ、現実からずれた。
(《《昔の人には、できた……?》》)
岩城部長は、半ば呆れ、半ば呑み込めずに首を傾げた。
だが、一織にだけは分かっていた。
教授がこの顔をするときは――冗談ではないことを。
*
「もう一度、確認させてください」
「どうぞ」
「私の耳の聞き違いでなければ……神童教授は今、
“昔の人が湖の上を歩けた”と、そう仰いましたか?」
「はい」
まるで当たり前のことを述べるように、時貞は頷いた。
奥の席では、水篠会長が堪えきれずに肩を震わせる。
笑っているのか、興奮しているのか、判別がつかない。
「……昔の人は、空中を浮遊できたと?」
「いいえ、飛ぶことは出来ません」
「では――水の上を歩いたと?」
「そうです」
時貞は、あっさりと言い切った。
岩城部長は口を開けたまま、次の言葉を見失う。
馬鹿らしさと困惑がないまぜになり、ただ深くため息をついた。
だがその瞬間、
時貞はテーブルに手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「ああ……本当にここは、いい眺めですね。諏訪湖が一望できる」
岩城部長の方ではなく、窓の方へと歩み、
両手を広げるようにして午後の光を受けた。
ガラス越しの陽光が、その彫刻のような横顔を淡く照らす。
静謐な光の中で、時貞という人物だけが別の時代に立っているように見えた。
一織は、その背中をじっと見つめ、心の中で小さくつぶやいた。
(……きた。四郎の“オーバーアクション”だ)
――そして、いつもこのあとに。
常識をひっくり返すような言葉が、かならず落ちてくるのを、彼女は知っていた。
窓の外を見つめるその瞳は、もうこの時代を見ていなかった。
まるで、五百年前の風が――今、そこに吹いているかのように。




