【4】 石箱浮上、そして無言の距離
昼食が終わり、
いよいよ石箱の引き上げ作業が始まった。
湖畔にそり出した四基の大型クレーン――
前後二基ずつが、ゆっくりと唸りを上げ始める。
クレーンの下に敷かれた分厚い鉄板が、重みにきしんだ。
四本のワイヤーは、空高く、うねるように引き上げられていく。
「ついに、五百年の眠りから――!」
碧はカメラに向かって、興奮ぎみに実況していた。
「今、その石箱が……浮き上がりました!」
水面から、巨大な箱の姿がじわじわと現れる。
その圧倒的なスケールに、観客の間からどよめきと歓声が湧いた。
ドリルで開けた穴からは、泥水が激しく噴き上がる。
四基のエンジンが、呻くような轟音をがなり立てる。
クレーンの鉄のアームが、一斉にしなり、唸るように軋んだ。
――ゴウン。
巨大な箱が、湖面に水滴を弾きながら、僅かに空中に浮き上がる。
その瞬間、一際大きな歓声が現場を包んだ。
側面のドリルで穿たれた孔からは、泥水が激しく噴き出し、――幾分箱は軽くなった。
石箱は今、まさに五百年の沈黙を破り、現代へと姿を現した。
――◇――
湖上では、別班が気球シートの回収に入っていた。
――そのときだった。
濁った湖の中央、水底の泥の奥から、何かが――ゆっくりと浮かび上がろうとしていた。
それは、長く泥にめり込んでいた。
石箱の真下に押し潰され、五百年ものあいだ閉ざされていた“何か”。
箱がどかされ、ついに自由を得たその存在は、優に二メートルはある黒い塊。
まるで熊のような巨体だった。
目は閉じたまま、動きもない。
だが、それは確かに――水中を静かに、ゆっくりと浮上していた。
そしてついに、水面へと浮かび上がる。
……その瞬間を、誰一人として気づいてはいなかった。
――◇――
石箱は今、空へ持ち上げられようとしていた。
四基のクレーンが呼吸を合わせ、
巨大な“手”のように、ゆっくりとそれを掴み上げる。
息を呑む観衆。
石箱は地上スレスレを滑るように、
湖から陸へ――そして中庭の中央へ。
源次たちは、幾度もシミュレーションを重ねたその手順を、
寸分違わぬタイミングで実行していた。
やがて、石箱は指定位置の中央に降ろされる。
重低音が地を震わせ、鉄と石が擦れる音が辺りに響く。
「――OK!」
源次の号令が飛ぶ。
観客席から、どっと拍手と歓声。
緊張した空気が、一瞬に解放された。
作業員たちが一斉に動き出し、ワイヤーを外していく。
――◇――
その間を縫って、龍信がクレーンの操縦席から降りてきた。
鉄のはしごを一段ずつ踏みしめるたび、地下足袋の底が鉄板を擦る。
ヘルメットを脱ぎ、汗に濡れた髪を指でかき上げる。
日焼けした額を伝う汗が、首筋をつたってつうっと落ちた。
「お疲れ様」
碧が駆け寄り、そっと刺繍入りのハンカチを差し出した。
龍信は一瞬だけ顔を上げ、碧とハンカチに目をやる。
しかし、そのまま受け取らず、わずかに視線を逸らした。
「……彗!」
背後のクレーン付近に、低く通る声を飛ばす。
ニキビ面の若い作業員が「はいっ!」と手を挙げ、走ってきた。
汗まみれの作業着が風にひるがえる。
「煙草、あるか?」
「へいっ!」
彗はポケットを探りながら笑顔を浮かべる。
碧の指が、ブレザーのポケットの中の箱に触れた。
そこには――煙草。
けれど、もう出す気はなかった。
彗は、龍信の横に並び、しわくちゃになった箱を取り出す。
龍信はそれを受け取らず、顎で合図を送る。
――その手は、泥と油にまみれ、爪の奥まで黒ずんでいた。
彗は、くにゃりと曲がった一本を抜き出し、龍信の唇にくわえさせる。
銀色のオイルライターを片手で弾き、火をともした。
ボッ――と小さく炎が揺れ、紫煙が風に溶けていく。
龍信は深く吸い込み、目を細めた。
「源さん!」
前を通り過ぎようとした源次に、煙草をくわえたまま、声を掛ける。
すぐに、源次が足早に近づいてくる。
白いヘルメットの下の額には、汗が光っていた。
「二号機の安吉が、ギヤの調子が悪いって言ってます」
龍信の言葉に、源次が無言で頷く。
「ちょっと、見てやってもらえますか」
そう言いながら、二人は二号機のクレーンの方へ歩き出した。
彗が一瞬だけ碧に目をやると、どこか気まずそうに後を追っていく。
彼女の手の中では、煙草の箱が静かに潰れていた。
(もう、絶対許せない。――さっきは庇ってあげたのに)
碧は完全に無視をされて、そして完全に頭にきた。
――◇――
そのとき――
遠く、湖の方から“何かの気配”がした。
碧は、反射的に振り返る。
湖面には小さな波紋がいくつも広がり、
白い泡が、ぽつり、ぽつりと浮かび上がっていた。
「……気のせい?」
風が止まり、空気がぴたりと張りつめる。
どこかで、微かに――低いうなりのような音が、湖から響いていた。
まるで、
“意志を持つ何か”が、五百年の眠りから静かに目を覚まそうとしているかのように。
そして――
湖の中央に浮かび上がった黒い物体が、音もなく、湖畔へ向けてゆっくりと流れ続けていた。




