【3】 眉毛と正義感とゾバの行方
プレハブ本部棟の採集室。
がらんとした空間に、弁当のフタが擦れる音と、箸の先が当たる小さな音だけが漂っていた。
「どうしたの!?」
窓際で弁当を広げていた碧が、すぐに声を掛ける。
「怪我人が出たの」
一織は、室内の統括責任者――東峰 隆造へと顔を向けた。
「救急車を呼んでください!」
東峰は無言で携帯を取り出し、119。
水篠物産の部長にして今回の現場統括責任者。
四十八歳、薄い頭髪に眼鏡。実直だが、融通がきかない。
電話を切ると、低い声。
「何があったんだ」
「鉄材が崩れて、見物に来てた人が足を挟まれて。
でも、龍信さんと源次さんがすぐに助けに入ってくれたので、怪我は軽傷で……」
「なんだと! あれほど管理に気をつけろと――」
語気が跳ね上がる。
「ちがいます、立ち入り禁止に勝手に――」
一織が言いかけたその時、龍信と源次が、若い男を支えながら室内へ入ってきた。
足を引きずる男。その後ろを、茶色の髪に“手描き”の細眉の女が、脱げた靴を片手に追ってきた。
「注意しろと言っておいただろ! 何をやっているんだ、君たちは!」
東峰が詰め寄る。
「申し訳ありません」
源次は男を壁際に横たえ、深く頭を下げた。
「違うわ。この人が勝手に――」
一織が言いかけたとき、
「一織ちゃん」
龍信が、静かに制した。
だが一織は収まらない。くるりと踵を返し、茶髪の女へ詰め寄る。
「なんで、あんな危ない場所に入ったのよ!」
女は離れ気味の一重に、ほぼ手描きの眉。
どこか人を小馬鹿にした表情で言う。
「だって、公生くんが“もう時間だからゾバ行かないと”って」
「ゾバ?」
一織が眉をひそめる。
「駅前にあるでしょ。――英会話のゾバ」
「で、なんであんな危険な場所を通ったの?」
「公生くんが、そっちの方が駐車場に近いって……。
私は危ないって言ったんだけど」
「鉄材の上に登ったら崩れるくらい、わかるでしょ!」
「だから言ったってば、私は――危ないって!」
茶髪の女が、一歩も引かずに睨み返してきた。
一織は、今度は横になっている茶髪の男に向き直った。
「……あなた、死ぬところだったのよ。
龍信さんと源次さんが身体で鉄材を押さえなかったら、
今ごろ下敷き。命、なかったわよ。わかってるの?」
男は蒼白。
左足首が赤く腫れ、靴は脱がされている。
鼻にはピアス、ズボンは膝までずり落ちたまま、パンツのロゴが見えている。
「一織ちゃん、もういいよ。ありがとう」
龍信がそっと肩に手を置く。
「よくないわよ。だって、龍信さんたちが命がけで助けなかったら、この人――」
「一織ちゃん」
「ゾバにだって、もう二度と――」
「一織ちゃん!」
源次が一歩出て、低く通る声。髭がわずかに揺れた。
「何にせよ、現場で起きた事故は私たちの責任です。
二度とないよう、徹底いたします」
そう言って、源次が東峰に頭を下げた。
「当然だ。社に戻ったら然るべき処罰を――」
「ちょっと待ってください」
碧が、割り箸を弁当に置き、静かに立ち上がる。
歩みながら、はっきりと通る声。
「状況を聞く限り――立ち入り禁止に勝手に入り、鉄材が崩れて足を挟まれた。
そこへ源次さんと……《《そこの人》》が命がけで飛び込んで救った。違いますか?」
“そこの人”で、碧は龍信を指す。
「それ、人助けですよね。
どうして処罰の話になるんです? 命を救ったんですよ」
一織が勢いよく頷く。「そうそう!」
東峰の顔が、みるみる赤い。湯気の立つ赤鬼に。
「うるさい! 君はチャンネル9のレポーターだろ。
なら上に話をつけて、今すぐおろ――」
「いい加減にしてください!」
一織の声が弾ける。ピシャリ、空気が割れた。
「さっきからうるさいが、君は一体誰なんだ!
あんたに意見は求めていない!」
東峰の語気はさらに上がる。
「何ですって!? この頑固ジジイ!
わたしはただの女子大生よ。――で? それが何か、文句ある?」
怒鳴り返された東峰は、顔を真っ赤にして叫んだ。
「なっ、なんだと! 貴様、わたしを侮辱――!」
「待ってください!」
龍信が割って入る。
「今回のことは、すべて私たちの責任です。それなりの処分は――」
「龍信さん、黙ってて! これは、わたしとこの“ツルちゃびん”の問題だから」
「なにィ!? ちゃびんだと!? 林君、このアマを外に――」
呼ばれた林 道夫は硬直。
がっしり体型、元ラガーマン。
隣の山本 誠――柔道経験者も、目をぱちくり。
林は小走りで東峰部長の横まで近づくと、腰をかがめて、顔を寄せ、小声でささやいた。
「部長……マズいですよ」
「は? 何がだ」と、東峰は眉をひそめて、訝しげに横目を向けた。
林は少し口ごもってから、慎重に言葉を選ぶ。
「……あの子、牧瀬コンツェルンのお嬢さんですよ。牧瀬 一織さんです」
「……なっ、なんだと!?」
東峰の額のしわが、さらに深く刻まれた。眼鏡の奥の目が、わずかに泳ぐ。
そこへ、後ろからもう一人――同僚の山本が小声で付け加える。
「それに……今回の発掘計画を立てた神童教授とは、幼いころから親しくて。
今も現場で助手を務めているそうです」
彼の顔から、みるみる血の気が引いていった。
東峰の真っ赤だった顔が、みるみるうちに青ざめていく。
――怒りの赤鬼から、泣き出しそうな青鬼へと変貌したかのようだった。
牧瀬コンツェルン――それは、全国に影響力を持つ巨大企業だ。
地方を基盤とする水篠物産とは、比較にならないほどの格の違いがある。
しかも、神童時貞教授は、会長の水篠が一目見ただけで惚れ込んだ人物として社内でも知られていた。
東峰は冷や汗を垂らしながら、一織に背を向けたまま、まるで石になったように微動だにしなかった。
「……何、話してんのよ?」
一織が不審そうに眉をひそめながら、部屋の奥で東峰を囲む二人に目を向けた。
だが、彼は背を向けたまま、固まったように動かない。
そのとき、後ろから龍信が歩み寄ってきて、静かに口を開いた。
「一織ちゃん、もういいよ」
そして、東峰と一織のあいだに立ち、深く頭を下げる。
「今回の件は、すべて私の不注意です。弁解はしません」
その直後、壁際にいた山本がそっと声を発した。
「この方は、大手建設会社・賀寿蓮組の二代目、賀寿蓮 龍信さんです」
東峰の目がわずかに見開かれた。
(――そういえば、東峰は龍信着任前に現場入り。源次にしか挨拶していなかった)
――◇――
東峰はしばし黙し、やがて重い腰を上げるように向き直った。
日焼けした龍信の顔――無言の圧。審判の像。
「……わかった。今回は大目に見る。
今後は、くれぐれも気をつけたまえ」
かつての張りは、影も形もない。
神童・牧瀬・賀寿蓮。
三つの“看板”を同時に相手取る胆力は、彼にはない。
東峰は震える指でハンカチを取り出すと、滲んだ汗をぬぐい、眼鏡を外してレンズまで丁寧に拭き始めた。
「何っ!大目に見るですって。龍信さん達は人助けをしたのよ」
一織はまだ収まらない。
「……わかった。今回の――」
「“わかったぁ”? 何がわかったのよ、このツルちょびん! わたしが言いたいのは――」
勢いよく畳みかけようとした一織の肩を、龍信がそっと押さえる。
「本当に、もういいよ。一織ちゃん」
その笑顔は、諦観と優しさの間。
東峰は眼鏡を外したまま、小さな目をしょぼつかせて項垂れている。
――その時、サイレン。
救急隊が担架を抱えて入ってきた。手際よく男を載せ、固定する。
「ちょっと、待ちなさい!」
一織の声が再び飛ぶ。
「あんた、ゾバ行くならズボンはちゃんと上げなさい! ――で、あんた!」
くるりと振り返り、茶髪の女を指差す。
「眉毛は、元あった位置に線を引きなさい。それ、ちょっとズルいです!」
たしかに、剃り残しの“土手”は、現在描かれた眉のずいぶん下――。
(※一般的には大きなお世話である)
龍信が源次を見る。源次は壁にもたれ、腕を組んで笑っていた。
東峰と取り巻き二人は、いつの間にか霧のように退散。
一織はまだ気が済まないのか、唇を尖らせて、
「シロー!」
と、時貞のいる部屋へ走っていく。
碧は、その小さな背中に、ふっと息を漏らし、首を横に振った。
(正義感、爆発。――でも、嫌いじゃない)




