【2】 浮上するもの、それぞれの過去
諏訪湖の風が、わずかに向きを変えた。
湿った空気が、クレーン群の鉄骨をわずかに震わせる。
湖畔に設けられた作業ヤード――。
その中央で、一号機のアームが、ゆっくりと角度を変えていた。
運転席にいるのは、龍信。
褐色の腕に浮かぶ筋が、レバーを握るたびに盛り上がる。
ヘルメット越しでも分かる、あの鋭い声。
彼の一言が、現場全体の空気を一瞬で引き締めた。
「右ッ! 二号機、あと十センチ下げろ! ――四号、止めぇっ!」
怒号が、湖面を越えて山にこだまする。
それは、まるで重機たちを統率する指揮官の声だった。
(……偉そうに)
碧は、ほんの数時間前――
宿舎の脱衣所で、タオル一枚に狼狽していた男の顔を思い出し、
思わず口の端をゆるめた。
「龍信さんでしょ」
隣で声をかけたのは、一織だった。
碧の視線を追い、クレーン上の人影を見て、納得したように微笑む。
「ね、あの人――ほんと、格好いいでしょ。四郎とは大違い」
碧は苦笑しつつも、視線を外せなかった。
日焼けした肌。節くれだった腕。無駄のない動き。
その姿は、まるでタフなハリウッド俳優のようだった。
「龍信さん、バイクのレースをやってるのよ。
今朝まで仙台で走ってて、徹夜で帰ってきたんだって」
「え、レース?」
一織はうなずき、声を少し落とす。
「レース中に仲間が事故ってね……ずっと病院に付き添ってたらしいの。
昨日ようやく意識が戻って、脳にも異常がないって分かったので、
それで――そのままバイクを飛ばして、ここに来たの」
「……そう」
碧の声は小さかった。
胸の奥に、何かが引っかかるような沈黙が残った。
「ね? あんまり喋らない人だけど……」
一織の視線が、クレーンの上で声を張る龍信へと移る。
「何日も寝てないのに、戻ってくるなり現場に出て。
ああいうところ、本当に責任感のある人だと思うの」
(ちょ、ちょっと待って……)
碧は、心の中でブレーキを踏んだ。
最低の暴走族だと決めつけ、懲らしめてやった男が――
仲間を思い、責任感を背負って動く、
こんなにも実直な人間だったなんて。
それは、碧が理想としてきた“強くて優しい男”そのものだった。
(いや、そんなはず……)
碧は首を振り、心のざわめきを振り払おうとした。
――◇――
一織は碧の顔をのぞき込み、少し声を落とした。
「四郎もね……本当は違うのよ。
ああ見えて、あれ、わざと“軽く”見せてるの」
「わざと?」
碧が眉を寄せると、一織は穏やかに頷いた。
「高校のころまで、四郎にはね――友達がひとりもいなかったの。
その時は、気づいてなかったけど……」
一織は、少し寂しそうに笑う。
「周りの人たちは、四郎のお父様のこととか、家のこととか。
“特別な家の子”って思って、なんとなく距離を置いちゃってたの。
それに、頭が良すぎたのよ」
一織はふっと遠くを見る。
「教室でね、平気な顔でドイツ語の本を読んでたりしたら、
もう“次元が違う”って感じでしょ。
……そりゃ、誰も近づけないわよ」
「それに、あの顔でしょ?
日本人離れした美形で、難しい本を読んでたら……
誰だって話しかけづらいわよね」
「ふぅーん……」
碧は小さく頷き、指先で頬に触れる。
一織は少し息を吸い、言葉を続けた。
「それでね、ある時、四郎は気づいたの。
――自分が、ひどく孤独だったって。
それからよ。わざとおどけて、馬鹿なことを言ったり、
“軽い人”を演じるようになったのは」
「壁を壊すために……」
碧の声には、ほんの少しの優しさが混じっていた。
「いまでは人気者だけど、
お父様は“家の恥”だって何度も叱ったわ。
神童家の人間なら、もっと威厳を持てって」
一織は小さく首を振る。
「でも四郎は聞かなかった。
大学に入ると同時に、家を出たの」
碧は静かに、大きなため息をついた。
「…………だって、そうでしょう?
本当なら、わたしみたいなただの学生が、
歴史考古学の教授に向かって怒鳴るなんて、できるわけないでしょう」
一織は優しく微笑みながら、碧の方を見た。
「それを四郎は、わざとやらせてくれてる。
――威張ることも、権威を振りかざすことも、あの人はいちばん嫌いだから」
言い終えると、一織は少し悲し気な顔で微笑んだ。
碧は、その笑みに――どこかで心を動かされていた。
(そうか……最初から、“最低の男”を演じてたんだ)
(地位や肩書きを使えば、もっと楽に進められただろうに――)
(――なのに、しなかった)
碧は、時貞の“本当の性格”が少しだけ見えた気がした。
それは碧にとって――嫌な性格ではなかった。
「……優しいのね」
碧がぽつりと呟くと、一織は微笑んでうなずいた。
「ええ、悲しいくらいに優しいの。
四郎はね、誰といても、いつだって自分を下に置いてしまうの。
……本当は、誰よりも雲の上の存在なのに」
その言葉に、碧もそっと頷いた。
「でもね、今でもたまにあるの」
と、一織は小さく笑って言葉を継いだ。
「でもね、今でもあるの。
四郎が真剣な顔で難しい本を読んでるとき――
そのときだけは、わたしでも声をかけられないのよ」
二人は、同時に湖面へと視線を戻した。
風が止み、空気の温度がわずかに変わった。
――◇――
湖面が、静かに膨らみ始めた。
中央の水が盛り上がり、白い泡が弾ける。
「始まった……!」
碧が思わず声を漏らす。
湖上のタグボートが左右に揺れ、
その間から、巨大な白い円が――ゆっくりと浮かび上がった。
気球の“頭”が湖面に浮かび上がり、
その中央は、内部から張られたワイヤーに引かれて大きく窪んでいる。
外周だけが盛り上がって、まるで巨大なドーナツのようだった。
「一号艇、固定確認! 二号艇、潜行急げ!」
現場責任者の源次の声が飛ぶ。
タグボートから、潜水士たちが次々に湖へと飛び込み、
ワイヤーを石箱の底部へ通していく。
濁った水の下で、
無数の泡が光のように弾けた。
やがて、箱下を通したワイヤーが、
地上のクレーンへと繋がれた。
源次が、紅白の旗を交差させる。
――引き上げ開始。
四基のクレーンが一斉に唸りを上げ、
エンジンの低音が地面を震わせた。
「三号機、早すぎるぞ! 慌てるな!」
一号機の上から、龍信の怒声が飛んだ。
源次がすぐに赤旗を掲げ、“抑えろ”の合図を送る。
クレーンの運転士が頷き、レバーを半回転――油圧音が短く唸りを上げた。
四本のワイヤーは、息を合わせるように動く。
一台でも早ければ、全荷重がそこに集中し、
クレーンごと湖へと引きずり込まれる――。
誰もが知っていた。
これは、命綱を握る綱引きだった。
――やがて。
「……張ったぞ!」
張力が限界まで達し、
四本のワイヤーが空へと弦のように引き絞られる。
「ヴガガガガガッ!!」
鉄骨がうなり、巨大なクレーン群が同時に悲鳴を上げた。
その音は、まるで巨大魚を吊り上げる竿の軋みのよう。
ワイヤーが少しずつ巻き上げられていく――。
ギリ、ギリ……ギギギ……。
水面がざわめき、白い泡が連鎖的に弾けた。
白い巨大な“ドーナツ”で浮かんでいる石箱が――
ワイヤーに引かれて、ゆっくりと岸へと寄っていく。
「もう少しだ……!」
現場に緊張が走る。
そして――石箱の底が、ようやく浅瀬に乗り上げた。
――ゴウン。
重たい音が湖底を震わせる。
一瞬、全員が息を飲んだ。
石の一部が、水面からかすかに顔を覗かせている。
再び潜水士が飛び込み、水中で確認作業に入った。
湖はもう泥で濁り、視界はほとんどない。
だが、彼らは手探りで箱底を確かめ――やがて親指を立てて合図を送った。
「問題なし。これ以上は沈みません!」
石箱に取り付けた円形シートを外し、
今度は地上の“第二工程”――本格吊り上げの準備へと移る。
前後二機ずつ、計四基のクレーンが待ち構えていた。
石箱の四隅には、あらかじめリング状のワイヤーが取り付けられている。
クレーンから伸ばした太いワイヤーの先端――巨大な釣り針のようなウインチを、そのリングにひとつずつ丁寧に引っかけていく。
そして四基のクレーンで、箱の四隅を同時に持ち上げて―湖畔へ降ろす。
その円形シートの撤去と、ウインチの取り付け工程に入る。
この作業には時間がかかるため、現場の作業員を除いた関係者たちは一時的に昼食休憩となった。




