【5】 ジャッカルと、慈悲の説法
テーブルの上を、黒いカブトムシがのっそりと歩いている。
碧は――すっかり、時貞に謝るのを忘れていた。
というのも、当の本人が、
わざと“謝る隙”を与えない空気を作っていたからだ。
一織が、カレーまんの残骸を袋に詰め終え、ぽつりと呟く。
「四郎の家族って、ほんと変わった名前ばかりでしょ。
だから本人も、何にでも名前を付けたがるのよ。
今度はカブトムシに“ヨネ松くん”だもんね」
袋の口を、きゅっと縛る。
碧は苦笑した。
「……そうね。
ジャッカルくんとかも、ね」
――その瞬間。
「ジャッ……カッ……ルゥゥ~~~~~ッッ!!!」
一織の顔色が変わった。
額に青筋。
怒号が、雷のように炸裂する。
「ひっ……!」
背を向けていた時貞の肩が、ビクリと跳ねた。
顔面が、一瞬で蒼白になる。
次の瞬間――!
結び目のついたコンビニ袋が、
ミサイルのように後頭部へ発射された。
――が。
時貞は背を向けたまま、
まるで第六感が働いたかのようにヒョイと頭を傾け、
紙一重で回避。
袋はスペースシャトルさながらの軌道で放物線を描き、
目の前の壁に――
ペシャッ!
壁に激突し、
そのまま、儚くも崩れ落ちた。
次の瞬間――
一織が立ち上がる。
「四郎、碧さんに何したのよ!
今度はどこ掴んだの!? ねぇッ!」
鬼の形相。
時貞の襟首をガシッと掴み、
強引に振り向かせた。
雷が落ちる勢いの詰問。
時貞は、
もげるほどに首をブンブン振った。
顔は真っ赤。
酸欠寸前。
「な、何にもしてない! してないしてない!
これから――」
――はっ。
口を押さえる。
“墓穴寸前”。
「もう、今回だけは本っ当に許さないから!」
一織が詰め寄る。
――最年少の天才歴史考古学者、神童時貞。
この瞬間ばかりは、完全に無力だった。
碧は、ぽかんと立ち尽くす。
「……ど、どうしたの?」
まったく、わからない。
すると――
「わたしはね!」
一織が叫ぶ。
「ジャッカルにお尻を握られたのよ!!」
――爆弾。
「……えッ!?
――前科あり」
碧の思考が、弾けた。
(あっ……あの“右手のジャッカル”って――)
(まさか、“獲物”って……そういう意味の……!?)
顔が、引きつる。
――そんな中。
当の時貞が、静かに口を開いた。
右手の“ジャッカル”で、そっと指す。
「落ち着いて。
まずは……このヨネ松くんを、よーく見てくれ」
――真顔。
「はあっ!? なんで今、カブトムシ!?」
一織は、完全にブチ切れている。
それでも時貞は続けた。
「いいから。――彼は、戦うための体をしている。
角を持ち、空を飛ぶ。
……いわば、“空飛ぶ戦車”だ」
“ジャッカル”で“ヨネ松”を掲げる。
「だけど、メスには角がない。
なぜだと思う?」
一織は無言。
腕を組んだまま、時貞を見下ろす。
――納得する気配は、微塵もない。
碧は一歩引いた位置で、
必死に笑顔を貼り付けていた。
――顔が、明らかに引きつっている。
「メスには、戦う必要がなかったんだよ。
いざという時は、オスが助ける。
――役割が、はっきり分かれていた」
時貞は、ゆっくりと顔を上げる。
「こんなにも小さな虫にさえも」
そして――
「でも!」
声が跳ねる。
「人間はどうだ!!」
両手を大きく広げた。
「男と女の違いなんて、生殖に関する部分だけだ。
男には――
最初から、“牙も角も”与えられていない」
一拍。
目が、開く。
「じゃあ、男は戦えないのか?」
――間。
「答えは、ノーだ!」
空気が、止まる。
「男はね、武器の代わりに“勇気”を授かったんだよ」
胸に手を当てる。
「愛する者のために、命を懸けてでも守り抜く――
そんな力が、この胸にはある。
――この僕にも!」
――熱。
だが。
一織は、すでに天を仰いでいた。
怒る気力もない。
碧は――
(……どうやって逃げよう)
出口のタイミングだけを、
必死に探していた。
「そして神は、女にね――」
時貞は遠い目をしながら語る。
自分の世界に入っていた。
「何より尊い“慈悲の心”を与えた。
なぜそんなものが必要だったのか?
それは――」
ゆっくりと、言葉を落とす。
「男という生き物が、途方もない愚かさで、
――数々の過ちを繰り返すことを、神は知っていたからだ」
静寂。
「だからその過ちを、女の寛大な慈悲で許すようにと……」
――酔っている。
完全に。
部屋の空気の重さにも。
二人の視線の冷たさにも。
そして、知性の無駄遣いにも。
まったく、気づいていない。
お尻ハンターの、
本来は感動的であるはずの熱弁。
発端は尻触った“ただの言い訳”。
――一ミリも、心に響かない。
――この瞬間、碧は確信してしまった。
(ああ、この人、天才じゃなくて“災害”かも……)
*
――その頃。
外ではすでにセレモニーは終わり、
湖上では引き上げ作業が静かに進み始めていた。
そして、この者たちを待つのは――
眩しい朝か。
それとも――
この場所にいる全員の運命を変える“何か”か。




