【3】 レイクサイドと、愉快な狂騒曲
碧は――顔の筋肉をぎゅっと締めるようにして、
怒りを、営業スマイルで押し潰した。
「……神童時貞博士は、すぐに戻られますか?」
「ええ、多分」
男は披露しかけた左手をしぶしぶ下ろし、残念そうに息を吐いた。
碧は作り笑いのまま、探るように口を開く。
「博士って、どんな方なんですか?
たとえば、怒らせると怖いとか……触れちゃいけない話題とか」
男は、テーブルに肘をつくと、頬杖をついて――おおげさに考えこむ仕草をした。
「うーん……どういう方って言われても……」
「その……根に持つタイプとか、理不尽に怒鳴るタイプとか?」
碧は、できるだけ丁寧な笑顔で“核心”を刺した。
男は、何を思いついたのか、目を細めてニヤリと笑う。
「ここだけの話ですよ? 誰にも言わないって、約束してくれます?
ぼくも首がかかってますからねぇ」
「ええ、もちろん」
碧は真剣な顔でうなずく。
男は、声を潜めて言った。
「博士はですね――蛇みたいに根に持つタイプです。
一度怒らせたら最後、五年は忘れません」
「やっぱり……」
思わず口をついて出たその一言に、碧はハッと気づき、慌てて自分の口を手で押さえた。
「つい最近も、博士を怒らせた企業の社長がいましてね。
今どうなってると思います?」
「どうなったんですか?」
「台湾で焼き芋売ってます」
「……はい?」
「しかも、“尻に挟んで売る”っていうのが流行ってるらしくて……」
「ストップ!!」
碧は思わず両手を上げて制止した。
だが男はおかまいなしに続ける。
「でも博士、助手にはめちゃくちゃ甘いんですよ。
博士の機嫌を取るなら、助手のお願いを聞くのが一番です」
「……助手のお願いって、何ですか?」
男は意味深な笑みを浮かべ、手招きをした。
碧は、眉をひそめながらも身を屈める。
「今夜、レイクサイドホテルで、ゆっくり教えてあげますよ」
男は鼻の下を、シルクロードより長く伸ばして、小さく呟いた。
「……」
「心配いりません。予約はぼくが済ませます。
あなたは偽名を書いて、“妻”って書くだけで――」
「《《いい加減にしなさーいっ!!》》」
碧の怒声が、部屋の空気を一瞬で割った。
「今朝、ひとり殴ったばっかりなのよ!?
あなた、二人目になりたいの!?」
碧は、真面目に耳を傾けていた自分がバカバカしくなって、声を荒らげた。
「ふふふっ……」
男は低く笑って、ゆるく首を横に振る。
その長い前髪が頬にかかると――
その仕草すらも、妙に“高嶺の花”に見えてしまうのが腹立たしい。
――そのとき。
バタン!
勢いよくドアが開く。
「四郎! ピザまんなかったから、カレーまんにしたよ!」
飛び込んできたのは、ショートヘアの若い女。
コンビニ袋をぶら下げたまま、碧を見て目を丸くした。
「あっ……お客さん!?」
碧は軽く会釈した。
「チャンネル9の白鳥碧です。神童博士にインタビューのお願いを――」
自己紹介を終えたあと、
碧は女をまじまじと見た。
(……まさか、この人も“右手に名前”とかつけてないわよね?)
警戒心が走る。
女はベージュのブレザーにジーンズ姿。
動きがきびきびしていて、どこか快活な印象を与える。
「あっ! あなた、テレビCMに出てた人じゃない?
“京都へ行こう”のやつ!」
ぱっと笑顔になる彼女。
そして、テーブル越しに袋を男へ放った。
「テリヤキまんは?」
「なかった。朝早いからまだ蒸してなくて」
「そっか……」
男は、かぶと虫いじりをやめ、袋の中を覗き込んだ。
「でも、四郎はアンまんは嫌いでしょ? だからカレーまんにしたの」
女は得意げに笑い、ポケットから車の鍵を取り出してテーブルに置く。
だが、男はちょっと不満顔。
「博士はどちらに?」
碧が尋ねる。
「博士?」
女は首を傾げ、男の隣の椅子に腰を下ろした。
その瞬間、袋をのぞきこんでいた男が、急に声を上げた。
「あるじゃん、テリヤキまん、一個だけ!」
顔がパッと晴れた。
「それ、わたしの!」
女が抗議しても、男はどこ吹く風。
袋の中からテリヤキまんを取り出すと、まるで当然のように――一口で半分、がぶり。
「ちょっ、ずるーい!」
女が手を伸ばし、泣きそうな悲鳴を上げた。
(あの……)
「わかったよ、泣くなって。残りのカレーまん、三つぜんぶあげるから」
「だめぇー!」
(……あの………)
「じゃあ五個あげる!」
「そんなに買ってきてない!」
(…………あの……)
「じゃあ、カレー……」
「《《いい加減にしなさーい!!》》」
怒声が部屋に炸裂した。
碧の、怒りのツッコミ――本日二度目である。
碧は、さっきから何度も声をかけていた。
だが、ふたりはまるで空気のように彼女をスルーし続けた。
――堪忍袋の緒が、ぶちッと音を立てて千切れる。
碧の怒声が、部屋中に響き渡った。
若い女はびくっと肩をすくめ、ようやく碧を思い出したように振り向く。
一方、男は――もはや『怒鳴り声』の免疫ができていた。
テリヤキまんを口いっぱいに頬張りながら、
指についた具をぺろりと舐め、ゆっくりと顔を向けた。




