【2】 可愛い“獲物”に、右手が動いた
碧は中庭を抜け、プレハブ本部棟の中へと入った。
正面には、七メートル半四方の“内箱”を収めるための巨大な掘削穴。
湿った空気が立ちこめ、金属の匂いがわずかに鼻を刺す。
その穴を避けて、右手の壁際の通路を進む。
チャンネル9の〈報道控室〉、〈水篠物産控室〉を通り過ぎ――
「古代生物研究室」の札がかかった扉の前で足を止めた。
(まだセレモニー中で不在かもしれないけど……)
一瞬だけ迷う。
けれど、息を吸い込んで――ノック。
静かにドアを開ける。
中は、チャンネル9の控室とほぼ同じ造りだった。
正面の奥、机に向かって白髪の老人が腰を下ろしている。
皺の刻まれた指先で分厚い書物を押さえ、微動だにしない。
その背後では、眼鏡の中年男が肩越しにページを覗き込んでいた。
まるで時が止まったような空気の重さだった。
「……何のご用でしょうか?」
唐突に、横合いから声がした。
視線を向けると、部屋の隅――
白衣姿の女性が、書類束を胸に抱えたままこちらを見ていた。
助手の日向陽子(三十六歳)。
厚いレンズの奥の細い瞳が、冷ややかに光る。
表情筋を十年単位で使っていなさそうな無機質さだった。
「すみません、チャンネル9の白鳥碧です。午後に――」
「ああ、聞いてるわ」
遮るように言い放ち、日向は背を向けた。
「今、調べもの中なの。後にしてもらえる?」
素っ気ないその声に、碧は苦笑を浮かべた。
(……出た。典型的“学者テンプレ”。挨拶より顕微鏡優先タイプね)
奥を見る。
椅子に座る男は古代生物学者田辺広信(五十二歳)。
その肩越しで本を覗くのは、助手の丹波三郎(四十四歳)。
二人ともこちらに興味ゼロ。
「……わかりました。では、また後ほど」
小さく頭を下げ、ドアを閉めた。
胸の奥がじんわり熱くなる。
(これだから苦手なのよ、知的肥大人種は……!)
軽く息を吐き、次のドアへと足を向けた。
――◇――
通路の突き当たり。
そこに掲げられた札――『歴史考古学調査室』。
(……来た。ラスボス部屋)
この部屋の主は、
“諏訪湖の沈没石箱”を世に知らしめた考古学界の寵児、
神童時貞。
もし機嫌を損ねれば、
番組の放送前に、わたしの首が飛ぶかもしれない。
(……行くしかないわね)
碧は心の中でつぶやき、ノックして扉を開けた。
――◇――
中は静かだった。部屋の作りは同じ。
折りたたみテーブルが二つ並べられ、書籍や資料が山のように積まれている。
その中央――窓際の光の下に、一つの小型の石箱が鎮座していた。
重厚で古めかしいその箱は、時貞が解読した“七つの古文書”とともに、旧家の土蔵から発見されたもの。
これこそが、今回の大発見のきっかけだった。
(さすが“知の現場”……空気が違う)
と、視線の先――
背を向けて椅子に座るひとりの男。
(……よかった。助手の人かな)
碧は胸をなで下ろす。
もし皺だらけの老教授だったら、いまごろ胃がキリキリしていた。
「すみません」
声をかけ、一歩近づく。
だが、男は振り向かず、何かに没頭している。
長い髪を後ろで一つに束ね、か細い背筋がすらりと伸びていた。
(資料の整理……?)
碧が肩越しに覗き込むと――
(……え、カブトムシ?)
机の上を、黒光りするカブトムシがのっそりと歩いていた。
その尻を、シャーペンの後ろ側で――“つん”。
お尻を突かれたカブトムシは、ぎくりと体を浮かせ、
前につんのめりながらも、必死に前進を続ける。
……えらい迷惑である。
(なにしてんのよ、この人……!)
思わず声を張る。
「すみませんっ!」
その声に、ようやく男が反応した。
首だけを後ろに振り向け、こちらを見た――その瞬間、
「うわっ!」
椅子から、ぐらりと後ろに転けそうになる。
碧は思わず手を伸ばした――男の肩を支える。
その瞬間、男の手が、そっと碧の手に重なった。
(……可愛い)
じっと碧の顔を見つめながら、男は内心で呟いていた。
「あの、……助手の方ですか? 博士はどちらに?」
碧が控えめに尋ねると、男は座ったまま顔を向けた。
視線を逸らすことなく、まっすぐ碧を見つめてくる。
「えっ……ああ。博士は今……トイレかな」
その目は、まるで何かを測るように、じっと彼女の顔を見ていた。
男はやや痩せ型で、肌は透けるように白い。
長い前髪を真ん中で分け、切れ長の目元が印象的だ。
彫りの深い整った顔立ちは、西洋の血が混じっているかのような美しさを備えていた。
(……なんか、モデルみたいな顔……でも)
碧は思わず、眉をひそめかけた。
「はあ……トイレですか。えっと、あなたは研究員の方ですか?」
「えっ、ええ、一応……」
碧は微妙な顔で訊いた。
どう見ても“難しい本を読むタイプ”には見えない男だった。
「えっ、ええ、一応は……」
男は一瞬だけ言い淀んだものの、すぐににこやかに微笑む。
その顔がまた、やたらと整っている。
「あの~」
「えっ?」
「それ……」
「……はい?」
「わたしの、手っ!」
「あっ、ああ! すいません、すいませんっ!」
男は慌てて、“握っていたまま”の碧の手を放した。
――碧は、思わず二、三歩、後ずさった。
すると男は、自分の右手をゆっくりと持ち上げると、真顔のまま言った。
「つい……ジャッカルが」
「……は?」
「ジャッカル。ぼくの右手の名前です。
こいつは美しい獲物を見ると、つい捕まえてしまうんですよ」
男は、堂々と右手を掲げてみせた。
碧は凍りついたまま、男の顔と右手を交互に見た。
(……やばい。これはガチのやつだ)
一瞬、本能が警報を鳴らした。
笑っていいのか、逃げるべきなのか――判断がつかない。
(ていうか、“右手に人格”とか言っちゃうタイプ!?)
「ジャッカルは、昔アフリカのジャングルに棲んでいたんですよ。
こいつは獲物を捕らずに、可愛いメスの豹ばかり捕まえていたので、
こうやって、今はぼくの右手にしているんですけどね」
男がシャーペンでかぶと虫の傍のテーブルをコツコツと叩きながら言った。
碧は、呆気にとられていた。男の頭の中を疑った。
男は、右手をそっと下ろすと――なぜか照れたように微笑んだ。
碧は沈黙した。
“思考停止”という言葉を、久しぶりに体感した。
男はふっと笑い、少し照れくさそうに言葉を足した。
「ちなみに……左手の名前は、まだ誰にも話していないんですけど、あなたにだけは――」
「あのっ!」
碧がぴしゃりと遮った。
語尾すら言わせない、完璧なカットインだった。
左手の名前なんて、……どうでもよかった。




