第8話 七夕事件①
宰相・王允中から「後宮における楊家の勢力拡大を阻め」との密命を受けていた皇后・王綺華の侍女頭、杜若は、冷ややかな眼差しで帳面を閉じた。
「楊徳妃を、坤寧宮へ呼べ」
配下の侍女が膝を折り、すぐさま秋霜殿へと駆けてゆく。
ほどなくして知らせを受けた楊徳妃・清真は、蒼ざめた顔で小さく首を垂れた。
ふだんから声を荒げることのない彼女は、思いがけない呼び出しに胸の奥をきゅっと掴まれるような感覚を覚える。
「徳妃さま、日頃より皇后陛下にお目をかけていただけるのは、この上ない御恩。七夕の祭壇の設えを手伝えるなど、まさしく栄誉にございます。疾く坤寧宮へお越しくださいませ」
告げる侍女の声音は恭しさを装っていたが、鋭さを帯びて清真の鼓膜を打つ。その響きは「拒むことは許されない」と告げているに等しかった。
突き刺さるような声に、清真は息を呑んだ。細い肩が小さく震える。
「……承知いたしました」
掠れる声でそう答えると、侍女一人を連れて坤寧宮へと歩み出す。
裳裾が床を擦り、静まり返った回廊にかすかな衣擦れの音だけが長く尾を引いた。
その日、坤寧宮では七夕の祭壇設えが進められていた。
幔幕が張られ、器や供物が次々と運び込まれる。女官たちの足音が入り乱れ、掛け声が飛ぶ中、清真は場違いなほど小さな気配をまとって立っていた。
杜若は遠くから全体を監督しつつ、冷ややかに視線を送る。
合図を受けた侍女が徳妃にわざとぶつかり、清真はよろめいた。
「お気をつけあそばせ、徳妃さま」
「まあ、手が震えていては、幕が乱れてしまいますわ」
皮肉を含んだ声が飛ぶ中、清真は俯いたまま幔幕を押さえ続ける。
やがて「別室から幕用の布を運べ」と命じられると、廊下にはすでに水が撒かれていた。踏み出した瞬間、裾が濡れ、抱えていた祭服に水滴が散る。
「……っ!」
祭服に触れれば大失態。清真の手が震えた。
ちょうどその時、坤寧宮の女官に呼ばれて手伝いに来ていた周守謙が、その光景を目にして息を呑む。
「これは……いけません!」
すぐに踵を返し、衣の裾を翻して廊下を駆け抜けた。
向かう先はもちろん、春華殿。
春華殿では、女官たちが庭先で摘んだ蓮の花を水盤に浮かべていた。
夏の午後の光が簾越しに差し込み、白い花弁がゆらりと水面に広がる。扇を手にした明玉は、花々が作り出す涼やかな光景を眺めながら、ほのかな微笑みを浮かべていた。
そこへ、ばたばたと駆け込んでくる足音が響く。
「貴妃さま!」
現れたのは、息を切らした周守謙だった。
普段は女官たちにからかわれ、軽口を返しては笑いを誘う彼が、今は顔色を変え、眉を険しく寄せている。
「どうしたの、そんなに慌てて」
明玉は扇を畳み、目を向ける。
周守謙は低い声で報告した。
「徳妃さまが坤寧宮にて幔幕を持たされ、女官らに転ばされかけました。裾も濡れ、祭服に触れれば大失態となります」
殿内の空気が一気に凍りついた。女官たちが顔を見合わせ、春桃は思わず口に手を当てる。
「そんな、徳妃さまが……」
明玉は袖を払って立ち上がる。その仕草には迷いがなく、庭先に漂っていた夏の空気が一変する。
「徳妃は体が弱いのです。今すぐ、わたくしが庇わなければ」
周守謙は頭を垂れ、声を重ねた。
「お供いたします」
彼の返答に女官たちの視線が集まり、一瞬、春華殿全体が張りつめる。明玉が歩みを進めると、蓮の花を浮かべた水盤の水面が小さく揺れ、静かな決意を映し出した。




