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第2話 宰相王允中

尚書省の一室は、硯に満ちる墨の匂いと紙の擦れる音で重苦しく満たされていた。

高窓から差す午後の光は細く、机上に積み上がった奏章の山を鈍く照らしている。

几案の上には人事に関する文書が広げられ、朱筆の跡が幾筋も重なっていた。


宰相王允中は、筆を滑らせながら目を細めていたが、ふと人影の気配に顔を上げた。

王家の太監、王徳福が早足で進み出て、几帳面に深く一礼する。

薄い衣擦れの音とともに、密やかな声が広間に落ちた。


「――陛下が、『蘭貴妃のみに通う』と仰せになったとのことにございます」


一瞬、墨を含んだ筆先が宙で止まる。

そして王允中の口元に、わずかな笑みが刻まれた。

つい先日十六歳で登極したばかりの新帝が、後宮の均衡を無視するなど前代未聞。

だが、その青臭い言葉こそが、宰相の胸を安堵で満たす。


「なるほどな……」


彼は心中で呟き、硯の水を筆でゆるりと混ぜた。

その波紋が揺らぐのを見つめながら、思考をめぐらせる。

このために、何の後ろ盾も持たぬ蘭明玉を貴妃に推すことに同意したのだ。

皇后綺華の障害とならぬ、無害な女。王家にとって実に都合のよい存在である。


自意識の強い綺華は、最初は憤慨するに違いない。

だが宰相の娘として育てられた以上、頭の悪い子ではない。

言い含めればやがて納得する。

むしろ危ういのは、ライバル楊家の娘――徳妃清真が寵を得ることだ。

そうなれば、士大夫の巨家が後宮に根を張り、やがて政に口を差し挟む。

それこそが王家にとって最も忌むべき事態であった。


それに比べれば、血統こそ高貴なれど政治的に無害な蘭明玉が寵愛を独占する方が、はるかに扱いやすい。

皇帝が少年らしく一人の女に溺れるならば、そのあいだ政は宰相の手中にある。


允中は封簡のひとつを取り上げ、淡々と朱を入れながら口を開いた。

「しばらく様子を見よ。蘭貴妃が皇后陛下に害をなすような行動をとれば考える。だが政道に影響が出ぬ限り、王家として問題とはせぬ」


命を受けた徳福が頭を垂れて退いたのちも、筆の動きは止まらなかった。

奏章に朱が流れ、次々と印を結ぶ。

王允中にとって寵妃とは、ただの一駒にすぎぬ。


だが経験は知っていた。

寵愛を笠に着て権力を振るえば朝廷は乱れる。

しかし、時にその寵を賢く受け止め、帝を支えた妃が政を安定させた例もまた、歴史には残っている。


蘭明玉がどちらであるか――

硯の波紋を見下ろす宰相の目は冷ややかで、だがその奥底にわずかな期待の光を宿していた。

己が築く政の盤面に、どのような一手となるか。

王允中は淡々と、しかし鋭く、その行く末を見定めようとしていた。

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