第1話 乾清宮(皇帝執務室)
乾清宮、午後の陽が傾きはじめたころ。
漆黒の漆盆に並べられた札が、熙帝の前に差し出される。
王皇后、徳妃、賢妃、そして蘭貴妃。
居並ぶ太監たちは、固唾をのんでその手の動きを待った。
――だが熙帝は、指先を伸ばすどころか、冷え冷えとした声で言い放った。
「蘭貴妃の元しか行くつもりはない。他の札は必要がない。」
一瞬、広間の空気が凍りついた。
札を抱える太監の手が震え、誰もが言葉を失う。
歴代の帝王が均衡を保つために必ず複数の妃を巡らせてきたというのに――その慣例を真っ向から踏みにじる発言だった。
熙帝は気にも留めぬ様子で、机上の奏章へと目を落とした。
筆を取り、決裁の朱を淡々と入れていく。紙の擦れる音と筆先の軋みだけが、乾清宮にひたひたと響く。
「……っ」
「急ぎ、王家へ……!」
「いや、楊家に報せねば……」
太監たちは互いに目を見交わし、袖を翻した。
誰もが自派の外戚へ一刻も早く伝えねばならぬと悟っていた。
あわただしく退出していく背が次々に石畳を駆け抜け、乾清宮の広間はみるみる静まり返る。
残されたのは、総管太監の劉徳海と、皇帝の脇で静かに茶を淹れる小宦官だけ。
薄闇のなかで湯気が立ちのぼり、墨と香木の匂いが淡く満ちた。
劉徳海は注ぎ口を静かに拭い、恐る恐る口を開いた。
「陛下、ありきたりを申さば、過去ただ一人の妃をご寵愛なさった帝は、大抵、朝が荒れて、政がうまくいったためしがございません」
允成は筆を止め、ゆるりと劉を振り返る。
ろうそくの光に照らされるその顔は、冷えた水面のように澄みきっていた。
「劉太監。あなたは幾人もの皇帝に仕えてきた人だ。璃宋の現状を、誰よりよく知っているはずだ」
劉の目が、かすかに細められる。
「……つまり陛下は、すでに何事かお心に抱き、進めておられる。そう理解すればよろしいのですね」
允成は少しのあいだ目を伏せ、墨の香を深く吸いこんでから答えた。
「……私のような小僧が、あなたのような大宦官に何をか言わんや、というところだろう。だが、いかに愚かであろうと、私はこのやり方でしか進められない。あなたの理解を得ようとも思わない。正直を言えば、自信はない。ただひとつ、ゆるぎないものがある。それを信じて進むしか、生きる道がないというだけだ」
その声には、決意というよりは祈りに近い静けさがあった。
劉徳海は深々と頭を垂れ、長い沈黙の後に低く応えた。
「……畏れながら。陛下の道行きを遮ることは、老臣の務めではありますまい。せめて、いかなる事態になろうとも、後宮が瓦解せぬよう調えましょう。それが陛下のためならば」
允成はわずかに頷き、再び筆を執った。
墨痕の伸びやかな線が白紙を走り、乾清宮の静謐な広間にその音だけが残った。




