第10話 七夕事件③
総管太監・劉徳海を伴った皇帝允成は、春華殿の奥、蘭貴妃・明玉の居室に通された。
几帳の向こうでは水盤に浮かんだ灯がゆらめき、簾を抜ける夜風にかすかに揺れる。女官たちが静かに控えている気配が、張りつめた空気を一層濃くした。
長椅子に腰を掛けた允成は、しばし沈黙したのち、わずかに苛立ちをにじませた声を発した。
「――どういうことだ、明玉。
そなたはこの後宮において、微妙な立場にある。自分から求めて事件に首を突っ込むなと、言ったはずだ」
几帳の内から進み出た明玉は、静かに裾を払って膝を折る。
「申し訳ございません、陛下」
允成の眉が寄る。
「周が、連絡を寄越すような事態になるとは……軽率だぞ」
「はい。今回の件につきましては、わたくしの浅慮によりご迷惑をおかけいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。
また、些末なことで陛下のお心を煩わせぬよう、事情を黙っておりましたことも……どうかお許しくださいませ」
深く頭を垂れるその声には、悔恨と同時に揺るぎない意志があった。
明玉はさらに言葉を継ぐ。
「実は、徳妃・楊清真は、わたくしの幼馴染でございます。母同士が従妹にあたり、遠縁にあたります。蘭家がご存じのとおり零落しておりましたので、女官として後宮に上がるまで、長らく楊家の世話になっておりました。
わたくしが奉公にあがる折も、清真は行儀見習いとして、先の貴妃さまのお側に侍女として参っておりました」
劉徳海が横で眉をひそめる。だが允成は黙したまま、目を細めて聞き入っていた。
明玉はふと瞳を上げ、遠い記憶を紡ぐ。
「……陛下がかつて隅宮に蟄居しておられた折、季節の菓子を差し入れていたのは、清真でございます。
――蓮子餅を包んだ布巾を、覚えておられませんか?」
一瞬、室内に静寂が落ちた。
允成の胸裏に、忘れていた温もりが呼び覚まされる。
「季節の菓子……あれか」
彼は考え込むように視線を伏せ、遠い日を思い返していた。
「しかし、あの蟄居に、そなたが付き合わされたというのは……体のいい人身御供ではないか。そういう事情がありながら、楊家はなぜ庇わなかったのだ」
吐息とともに続ける。
「……言っても詮無いことだな」
明玉は静かに首を垂れた。
「わたくしは、陛下のお傍に上がれたことを、誇りに思っております」
允成の眉が和らぎ、軽く手を上げた。
「椅子に掛けろ」
「はい、陛下」
明玉が慎ましく長椅子に腰を下ろすと、允成は劉徳海を一瞥し、再び彼女に向き直る。
「そなたと楊徳妃のいきさつは、私も覚えておく。劉総管もそこで聞いているから、今後配慮しよう。……ただ、今回の坤寧宮での振る舞いは、少し強引すぎる。同じことがないよう、気を付けよ」
「御意にございます」
明玉は深く頭を垂れた。
その沈黙を破るように、控えていた周守謙が一歩進み出た。
華やかな顔立ちに似合わぬ低く冷静な声音が、室内に響く。
「陛下、ひとつ申し上げます。坤寧宮での祭服の準備の折、女官たちの動きにはいくつか不自然な点がございました。幕を支える徳妃さまへ、わざと肩をぶつける者あり。また、布を取りに廊下へ出た際には、足元に水が撒かれておりました。偶然にしては重なりすぎております」
允成は目を細め、顎に手を添える。
「……見ていたのか、周」
「はい。女官に頼まれて手を貸すうち、偶然目にいたしました。
確証を持って誰の仕業と断じることはいたしません。ただ、徳妃さまを狙った仕組まれたものであるのは明らかにございます」
劉徳海がうなずき、重い声を添える。
「陛下、後宮に不審の芽があれば、早めにお摘みになるがよろしゅうございます」
允成は目を閉じ、長椅子の肘に手を置き、低く息をついた。
「……皇后には、罪はあるまい。だが宰相が後宮に手を伸ばしているのは、もはや明らかだ」
その言葉が室内に重く落ち、静寂が支配する。
周守謙は瞼を伏せ、劉徳海も深々とうなずいた。
允成は明玉に視線を移し、硬い声音で告げる。
「王允中は、徳妃を通じて楊家の力を抑え込み、ついでにそなたも揺さぶろうとしている。明玉、首を突っ込むなと言ったのはそのためだ。狙いは徳妃だけではない――そなた自身に及ぶやもしれぬ」
明玉は膝を正し、静かに頭を垂れた。
「肝に銘じます、陛下」
允成は立ち上がり、劉徳海と周守謙を従えて廊下へ出る。
明玉も裾を整えて付き従い、庭口で深く一礼した。
その頬に、ふいに皇帝の手が伸びる。
指先がそっと撫で、低い声が落ちる。
「……すまない。心配のあまり、言葉がすぎたかもしれぬ」
明玉は目を瞬き、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「恐れ多いお言葉にございます。どうかお疲れを癒やされますよう」
允成はわずかに笑みを浮かべ、踵を返す。
七夕の灯りが庭に揺れる中、明玉はその背を最後まで見送っていた。




