第9話 七夕事件②
坤寧宮の広間には、七夕の祭壇を飾る幔幕や祭服が並べられていた。女官たちの手によって布が引き広げられ、色とりどりの灯籠が吊り下げられてゆく。
夏の湿り気を帯びた空気の中、香の煙がたちのぼり、広間は熱と緊張で息苦しいほどに満ちていた。
その一角に、頼りなげに幕を支える徳妃・楊清真の姿があった。
額に汗をにじませながら、必死に手を伸ばしている。だが次の瞬間――誰かの肩が不自然にぶつかり、清真の身体がぐらりと揺れる。
「――あっ」
抱えた裾が濡れ、すでに滴が祭服に届きかけていた。
女官たちは見て見ぬふりをし、杜若は遠くからその光景をじっと眺めている。清真の喉がひゅっと鳴り、指が幔幕を掴む力で白くなった。
その時、広間の入口に声が響いた。
「徳妃さまには、これ以上のお役目は務まりますまい」
振り返れば、春華殿の蘭貴妃・明玉が、静かな面持ちで歩み入ってきていた。後ろには周守謙が控えている。
「徳妃は体調が優れません。代わりに、このわたくしが務めましょう」
明玉が裾を整えて進み出ると、女官たちの手が一斉に止まった。
皇帝の寵妃――その身体に傷一つでも負わせれば、自分たちの首が飛ぶ。
誰もが息を呑み、布を引く手を強張らせる。
清真は唇を震わせながらも、涙が滲むほどの安堵を覚えた。胸の奥で氷のように固まっていた恐怖が、ようやくほどけてゆく。
明玉は微笑み、そっと彼女の肩に手を置いた。
「もう大丈夫ですわ、徳妃さま」
その囁きは小さいが確かな響きをもって、清真の震えを和らげた。
広間の空気は、静まり返っていた。
皇后の侍女頭・杜若は、蘭貴妃明玉の登場に顔をしかめた。
彼女の雇い主である宰相・王允中から、蘭貴妃への手出しは厳禁されていた。ましてや皇帝の明玉への偏愛ぶりはすさまじく、いつ懐妊していてもおかしくない状態だ。
なにも公表はされていない。だが、もしこの場で明玉が転倒し、万が一にも身ごもっていたとすれば――それは貴妃本人への危害にとどまらず、帝の皇子への危害とみなされる。さすがの皇后でも無傷では済まないだろう。
杜若がそこまで考えて硬直しているうちに、明玉は女官たちと共にてきぱきと動き、あっという間に祭壇の設えを整えてしまった。
白い指先が布を押さえ、香炉の向きを正し、供物を並べる。動作は一つひとつが優雅で、しかも的確。明玉が動けば、その場に秩序が生まれるようだった。
「まあ、蘭貴妃、手伝いに来てくださったのですか?」
そこへ、何も知らない皇后・王綺華が入ってくる。
明玉は一瞬その顔色をうかがい、考えるように瞳を伏せたが、すぐに柔らかく笑みを浮かべた。
「はい、皇后さま。日頃お世話になっておりますので、せめてものご恩返しにと、お手伝いに参りました」
「まあ……ありがとう。いらっしゃるなら知らせてくださればよかったのに。わたくし、休んでおりましたので出てくるのが遅くて……ごめんなさいね」
皇后は微笑み、のどかな声で言った。その声にはかすかな息切れが混じり、彼女の体の弱さを感じさせる。
そんな穏やかな空気の中、広間の扉が開く。
まさかの人物の登場に、皇后の瞳が大きく見開かれた。
「――陛下!」
前触れもなく、皇帝が姿を現したのである。
皇帝が政務を途中で切り上げて駆けつけてきたのは、明玉付きの宦官・周守謙の差配であった。
相手が皇后である以上、ただ「寵妃の身を庇う」というだけでは押し切れない場面もあり得る。ゆえに、最終的な切り札を切ったのだ。
広間へ足を踏み入れた允成は、まず明玉へ視線を向けた。
返ってきた柔らかな微笑みに、なにも起きなかったと察し、肩の力を抜く。
「楽しそうだな」
軽く笑う皇帝の声に、一同は慌てて深く頭を下げた。
「礼はよい、楽にせよ」
允成の言葉に、張りつめていた空気がほどける。
皇后・王綺華は、ぱっと顔を輝かせて言った。
「本日は七夕でございます。せっかくですので、夕餉でもいかがでしょう、陛下」
「わかった。いただこう」
允成が頷くと、皇后は喜びに笑みを浮かべた。
その傍らで、明玉は静かに袖を揺らし、気を利かせたように言った。
「それでは、わたくしはこれで」
そう言い残し、明玉はしずしずと退出する。
半時ばかり皇后の饗応を受け、允成は席を立った。
皇后綺華が名残惜しげに見送るその陰で、侍女頭・杜若は静かに瞳を細める。
明玉を追い詰められなかったことなど、もはや瑣末にすぎない。
結果として――皇帝を坤寧宮へと呼び入れ、皇后の饗応を受けさせることに成功したのだ。
「瓢箪から駒、とはこのことですわ」
唇の端に浮かんだ笑みは、冷ややかにして満足げだった。
後にこの一件を聞いた宰相・王允中は、娘を支える杜若の采配を大いに称えたという。




