(小説パート)空を走る少女
目を覚ますと、蝉の声と朝の光が差し込んでいた。
現実――合宿所の部屋。
けれど、手元には確かにノートが残っている。
> 『未完成の物語へ』
昨夜の出来事は夢だったのか、それとも……
だけど僕は確かに、今、書きたい言葉を持っている。
パソコンを開き、深呼吸して、キーボードに指を置いた。
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■本文
「空を走る少女」
その夏、僕は一度だけ、空を走る少女を見た。
本当に空だったのか、単なる見間違いだったのかは、今でも分からない。
けれど、彼女が風をまとって走り去る姿を、僕は確かに覚えている。
僕が彼女と出会ったのは、八月の初め。
町外れの坂道を下りきった先にある、誰も来なくなった遊園地跡。
そこに、彼女は立っていた。
「ここ、好きなんだ。風が集まってくるから」
彼女はそう言って、さびた観覧車を見上げた。
長い黒髪が、風に揺れていた。
僕たちは、毎日そこで会った。
話す内容はたわいもない。
夏休みの宿題の進み具合、昨日見た夢、遠くに聞こえる汽笛の音。
でも、彼女にはどこか“終わりを急いでいる”雰囲気があった。
「ねぇ、君は、“まだ”ここにいるの?」
そう聞かれた時、僕はなんと答えればいいか分からなかった。
“まだ”ってなんだろう。
「私はね、もうすぐ“あっち”に行くの」
“あっち”がどこなのか、聞く勇気はなかった。
それ以上に、彼女がそう言う時の、少し寂しそうな笑顔が、今でも脳裏に焼きついている。
八月の終わり、最後に彼女を見た日のことは、はっきり覚えている。
陽が沈む寸前、彼女は観覧車の上――じゃない。
その“もっと上”、空を走っていた。
本当に、走っていたんだ。
まっすぐに、風を切って。
泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
その後、彼女は消えた。
まるで、夏の終わりみたいに。
僕はあれ以来、誰にもその話をしていない。
でも今も、坂道の先に立つと、ふと彼女が走ってくる気がする。
風が吹いたら、思い出してほしい。
あの夏、空を走った少女のことを。
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僕は、最後の一文を入力して、タイトル欄に手を伸ばした。
> 『空を走る少女』
書けた。
本当に文学かどうかは分からない。
でも、僕の中の“夏”と“自然”と“物語”が、そこにあった。
パソコンを閉じた瞬間、遠くで雷鳴のような拍手が聞こえた気がした。
外はまだ朝。
だけど僕の中では、ひとつの夏が終わっていた。




