猫が笑う
高木は猫が嫌いだった。あの予測のつかない動き、気まぐれな態度、そして何より、全てを見透かしたような目が気に入らなかった。彼のきっちりと計画された日常に、猫という存在はあまりにも不規則なノイズだった。
だから、隣の101号室に若い女性が引っ越してきて、その腕に黒猫が抱かれているのを見た時、高木は眉間の皺を深くした。厄介事が隣に住み着いた、と思った。
案の定、その日から高木の平穏は少しずつ侵食され始めた。問題の黒猫は、名を「クロ」というらしい。ベランダで鉢植えに水をやっていると、隣のベランダの手すりにひらりと飛び乗り、こちらをじっと見ていた。
「……なんだ」
高木が不機嫌に呟くと、クロは、まるでその言葉が分かったかのように、口の端をきゅっと吊り上げた。
見間違いかと思った。だが、どう見てもそれは笑みだった。人間を小馬鹿にしたような、冷ややかな嘲笑。高木はカッとなり、思わずホースの水を隣に向けそうになって、すんでのところで思いとどまった。
それからというもの、高木はクロの「嘲笑」に悩まされることになった。ゴミ出しの朝、階段ですれ違えば「フン」とでも言うように笑う。アパートの廊下の窓辺で日向ぼっこをしながら、通りかかる高木を見てにやりと笑う。高木の目には、そうとしか見えなかった。
「あの猫、俺を馬鹿にしてるんですよ」
ある日、大家でもある隣人の斎藤さんにそう訴えたが、彼女はきょとんとするばかりだった。
「え?クロがですか?あの子、口角が上がってるから笑ってるみたいに見えるだけですよ。人懐っこい、いい子なんです」
いい子なものか。高木の心は晴れなかった。あの猫は、俺の人生の綻びを的確に見つけ出し、それをあざ笑っているに違いない。そうとしか思えなかった。
その日は、朝からついていなかった。大事なプレゼンで致命的なミスを犯し、上司にこっぴどく叱られた。降りしきる冷たい雨に打たれながらアパートにたどり着くと、心身ともに疲れ果てていた。
アパートの階段を重い足取りで上っていると、踊り場の隅で小さな黒い塊が丸くなっているのが見えた。クロだった。ずぶ濡れで、寒さに小さく震えている。どうやら、飼い主の帰りを待っているうち、雨に降られてしまったらしい。
高木は無視して通り過ぎようとした。だが、その時、クロが弱々しく「にゃあ」と鳴いた。いつものようなふてぶてしさはなく、ただただ心細そうな声だった。その声が、叱られて打ちひしがれた自分の心に妙に響いた。
高木は大きなため息をつくと、踵を返した。
「…おい」
クロが濡れた顔を上げる。その顔は、やはり笑っているように見えた。だが、今はもう嘲笑には見えなかった。ただ、助けを求めるように、高木を見つめている。
「…入れ。風邪ひくぞ」
ぶっきらぼうに言って自分の部屋のドアを開けると、クロは少し躊躇った後、そろり、と中に入ってきた。
部屋に入れると、高木は古いタオルでクロの体を拭いてやった。されるがままになっているクロは、やがてゴロゴロと喉を鳴らし始めた。その振動が、タオルを持つ高木の手にも伝わってくる。
拭き終えると、クロは高木の足元にすり寄って、座り込んだ。そして、見上げるようにして、また口の端を上げた。
笑っている。
でも、それはもう、高木が忌み嫌っていた嘲笑ではなかった。安心しきったような、穏やかで、温かい笑みだった。
その時、高木ははっとした。
猫は何も変わっていない。ずっと、同じ顔をしていただけだ。そう見えたのは、自分の心がささくれ立っていたからじゃないか。自分の劣等感や焦りが、猫の何気ない表情を「嘲笑」という形に歪めて見ていただけではないのか。
世界を歪めていたのは、猫ではなく、自分自身の心だった。
高木は、ゆっくりと床にしゃがみこんだ。目の前の黒い生き物の、琥珀色の瞳をまっすぐに見つめる。クロは瞬きもせず、高木を見返した。
「お前、ずっとそうやって笑ってたのか」
高木は、知らず知らずのうちに、自分の口の端が少しだけ上がっていることに気づいた。クロの真似をするように、小さく笑ってみる。不思議と、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
その時、玄関のドアがノックされた。
「高木さーん!すみません、うちのクロ、見ませんでしたか?」
斎藤さんの心配そうな声だった。
高木は立ち上がり、ドアを開ける。彼の足元からひょこっと顔を出したクロを見て、斎藤さんは「あ!」と声を上げた。
「よかった…!ごめんなさい、高木さん!ご迷惑を…」
「いや…」高木は首を振った。「あんたを待ってたみたいだ。雨宿りさせてただけだ」
ぶっきらぼうな口調は変わらなかったが、その声にはもう棘がなかった。
「ありがとうございます!」
斎藤さんは満面の笑みで頭を下げた。その屈託のない笑顔は、なぜだか、腕の中に戻ったクロの笑い顔によく似ている、と高木は思った。
自室に戻り、一人になった高木は、窓の外に目をやった。雨はいつの間にか上がっていた。
猫が笑う。
それは、見る者の心を映す鏡なのかもしれない。高木はもう一度、今度は誰に見せるでもなく、静かに微笑んだ。明日はもう少し、まともな一日になるような気がした。
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