第17話 同居人
俺はふと思い出したようにカバンを手に取る。
「……タクシー代、払わないと」
財布を取り出そうとジッパーに指をかけた瞬間、
すっと俺の手を止めたのは、野獣先輩のごつい指だった。
「やめろ。むしろ……俺がお前に渡さなきゃいけない立場だ」
そう言って、ベッド脇の棚から二つ折りの財布を取り出し、
中から折りたたまれた千円札を数枚、あっさりと俺の手に押し込んできた。
「ちょっ……いやいや、それはダメですよ!俺が送るって言ったんですから!」
「……遠慮すんな。これは自宅までのタクシー代だ。
何より今日は特別な日だ。ほら、プロテインバーのアイデアもまとまったし、
お前がいてくれてホントに良かった…」
特別な日、か……。
たしかに、いろいろあった。
いろいろ、濃かった。
「……それでも、俺は受け取れませんよ」
そう言って、手に握らされたお札をそっとベッド脇に置き直す。
先輩が口を開きかけたのを制するように、俺は一歩身を引いて、
冷蔵庫から持ってきたバナナを掲げた。
「代わりに、これ。バナナ、いただきます。
……これなら先輩も納得でしょ?」
野獣先輩は一瞬だけ驚いた顔をして――
すぐにふっと、穏やかに笑った。
「はは……そうか。だったら、それをありがたく受け取ってくれ」
彼のその笑顔は温かく、どこか優しかった。
バナナを手にして一歩踏み出したその時。
――ツルッ。
足元から、滑る感触。
次の瞬間、体が宙に浮いたような錯覚。
そして……。
「うわっ!」
重力に引きずり込まれる俺の身体。
やばい――!
と意識が叫んだその瞬間、ガシッと何かに支えられた。
いや、誰かだ。
目を開けると、そこには野獣先輩の腕。
俺を支える形で、そのまま、彼ごと床に倒れ込んでしまった。
ドスン、という鈍い音。
けっこうな衝撃だった。
「お、おい、大丈夫か……!?」
至近距離から聞こえてきたその声に、心臓がドクンと跳ねる。
俺は――野獣先輩に、覆いかぶさるような体勢で倒れていた。
手は彼の胸のあたりに置かれ、顔も……やけに近い。
「は、はいっ……だ、大丈夫です……っ」
うっすら汗ばんだ彼の体温が、ぴたりと伝わってくる。
そのせいか、身体の芯が熱くなったような、妙な感覚が襲ってくる。
その時だった。
ガチャリ、と玄関の扉が開く音。
振り返ると、そこに立っていたのは、茶髪で制服姿の高校生らしき青年だった。
華奢な見た目のその青年はK-POPアイドルのように見える。
彼は俺たちの姿を見た瞬間、目を見開き――
「兄貴……!? だっ誰だ!?あんた!!!」
そう叫びながら、俺に駆け寄ってきた。
「ちょっ、まっ……!」
青年は俺の肩をがっちりつかみ、
そのまま乱暴に俺を野獣先輩の上から引きはがす。
「おい、兄貴に何してんだよ!」
「ち、違っ……今のは事故で……!」
状況は最悪だった。
なぜかバナナの皮が足元に転がっていて、
俺はそれに滑って、野獣先輩に倒れ込んで――
で、目の前には、怒り心頭の謎の青年。
……どうしてこんなことになったんだ。
俺の肩をつかんでいたその手が、
怒りをそのまま指先に込めるように強く感じられる。
まるで俺がとんでもない悪事でもはたらいたみたいな勢いだ。
「優也! やめろ!」
野獣先輩の低くて、けれどしっかりとした声が、部屋の空気を切り裂いた。
優也と呼ばれたその青年は、ハッとしたように手を離す。
「誰なんだよ、この人…」
「彼は俺の後輩の小鹿だ。……体調が悪くなった俺を、家まで送ってくれたんだ」
息苦しそうにしながらも、野獣先輩は優也君の目をまっすぐに見据えていた。
強く、確かに伝えようとするように。
「……そっか、兄貴……具合、悪かったんだな。それで、もう大丈夫なのか?」
「あぁ、さっきバナナを食べたから平気だ」
その言葉を聞いて、青年がようやく落ち着いたように息をついた。
目線を床に向けた彼の視線の先――
そこには、無惨に転がるバナナの皮。
「……もしかして、これで滑って転んだのか?」
俺は、照れ隠しのように苦笑いを浮かべて、うなずいた。
「……はい。まさかバナナの皮で転ぶとは……思ってなかったですけど……」
優也くんはバツの悪そうな顔でこちらを見た後、深々と頭を下げた。
「……すみません。完全に俺の勘違いでした。
初対面なのに、いきなり怒鳴ったりして……」
「いえ、自分の方こそ、変な体勢で倒れ込んでしまって……ご心配かけました」
お互い、なんだか居心地の悪い空気の中で頭を下げ合う。
その後ろで、野獣先輩が小さく笑っていた。
「……お前ら二人、なんか似てるな」
――不思議と、その笑顔を見た瞬間、
心の中に温かいものが広がっていくのを感じた。
リビングの空気が少し落ち着いた頃、
野獣先輩がソファにもたれながら俺に言った。
「改めて紹介する。
こいつは俺の弟の優也。高校一年生だ」
隣に立っていた優也くんが、少し照れたようにぺこりと頭を下げた。
「どうも……さっきは本当にすみませんでした」
「いえ、こちらこそ。びっくりさせちゃってすみません……」
目の前でぴしっと背筋を伸ばす彼は、どこか兄と似ているようで、
けれど繊細な雰囲気を纏っていた。
「二人で住んでるんですか?」
と俺が言うと、野獣先輩は軽くうなずいた。
「ああ、親は今、海外に行っててな。
しばらくの間は俺が保護者代わりってわけだ。
まあ、優也のほうがしっかりしてるけどな」
「そんなことないって」
と優也くんが即座に否定する。
俺はというと、その様子を見ながら
「……羨ましいです。自分、ひとりっ子なので、兄弟がいるってなんか心強いですよね」
と正直に声に出す。
「まぁな。弟ってのは、いいもんだ」
野獣先輩が誇らしげに優也くんの頭をなでる。
「ちょ、やめろよ兄貴……」
優也くんは眉をひそめながらも、嬉しそうだった。
そんなやり取りを見ていたら、俺の中にもなんとなく、
温かい気持ちが広がってきた。
二人の様子をみていると、本当に仲が良いことが伝わってくる。
「小鹿さん。兄の看病、あとは俺に任せてください」
優也くんがそう言って、まっすぐな目で俺を見る。
俺も真剣にうなずいた。
「…じゃあ、お願いします」
そう言って立ち上がり、玄関へと向かった。
玄関を開けるとふと、夜の風が肌を撫でた。
「それじゃ、先輩。今日はゆっくり休んでください」
と野獣先輩に伝える。
「おう、色々ありがとな。気をつけて帰れよ」
その声に背中を押されるようにして、俺は野獣家をあとにした。




