第16話 熱
方向性が決まった。
そんな一言じゃ言い表せないほどの、濃密な一日だった。
「じゃあ今日はこのへんで解散としよう。みんな、お疲れ」
野獣先輩のその言葉を合図に、
各々が軽く会釈して、工場の敷地から散り散りに離れていく。
上野先輩は何やら太田先輩と話しながら、向こうの駐車場へ歩いていった。
朝日先輩は一瞬こちらを見たような気がしたが、何も言わず背を向けた。
俺は、スマホの地図アプリを開いて、最寄りの駅までの道のりを確認する。
陽は傾きかけていて、
オレンジ色に染まった工場の屋根がなんとなくノスタルジックだった。
ポケットに手を入れて歩き出すと、
ふと、あのバナナ型プロテインバーの試作図が頭に浮かんだ。
「……なんか、ほんとに形になるんだな」
自分の提案が採用されるなんて、正直まだ現実味がない。
でも、野獣先輩が「やってみよう」って言ってくれて、工場長も笑ってくれて、
上野先輩や太田先輩まで納得してくれた。
思い返せば、会社に入ってから今日まで、
いろんなことがあった。
朝日先輩の“悪ふざけ”に振り回されて、
胸が苦しくなったこともあったけど――
でも、今こうして、自分の意見がチームに影響を与えてる実感がある。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
駅へ続く一本道を歩きながら、
俺はカバンの中からペットボトルのお茶を取り出す。
もちろん、今度はちゃんと自分で買ったものだ。
ゴクゴクと喉を潤し、空を見上げる。
雲ひとつない、綺麗な夕焼け。
……明日は、もっと良い一日になるといいな。
そう思いながら、俺は最寄り駅に向かって、ゆっくりと歩き続けた。
電車を乗り継ぎ、自宅の最寄り駅にたどり着いた俺は、
ホームのベンチに腰掛けている見覚えのある背中に目を留めた。
スーツの肩は少し落ち、ネクタイは緩んでいる。
普段のあの威圧感すら感じさせないほど、ぐったりとしたその姿は――
「……野獣先輩?」
声をかけると、ゆっくりと顔を上げた彼は、やはり野獣先輩だった。
けれど、その顔色はひどく悪い。
額にはじんわりと汗がにじみ、目の焦点もどこかぼんやりしていた。
「なんだ、小鹿か……」
無理に笑おうとするが、いつものエネルギーはまるで感じられなかった。
「先輩、大丈夫ですか?顔、真っ青ですよ」
俺の言葉に、彼は観念したように小さくため息をついた。
「……実はな、さっきからちょっとおかしいなと思ってたんだが……
熱、あるみたいでな」
「熱?」
「さっき駅のコンビニで測ったら、39度だった」
39度――!?
そりゃ、ただの疲れじゃない。
「それ、病院行った方がいいですよ。一緒に行きましょう」
「いや、大丈夫だ。家に帰ってバナナ食って、寝たら治る」
……いやいや、バナナ万能説、ここに極まれり。
「なら、徒歩で帰るのもあれですしタクシーで帰りましょう。
俺、付き添いますから」
「いや、俺のこと気にするな。お前は先に家へ帰れ」
「先輩を置いて帰れるわけないでしょう。心配なんです、俺」
少し強めに言うと、野獣先輩はばつが悪そうに視線をそらした後、
小さくうなずいた。
「……じゃあ、悪いな。タクシー、呼んでくれるか」
それから俺はスマホでタクシーを手配し、
ホームの外で待機していた車に二人で乗り込んだ。
後部座席、すぐ隣で野獣先輩がぐったりとしている姿を見ると、
少しだけ胸が痛くなる。
タクシーが停まったのは、
落ち着いた住宅街の一角にある白い外壁の一軒家だった。
外観はごく普通の家だけれど、
どこか隙のない印象を受けるのは、住人の性格のせいだろうか。
「……ここだ。悪いな、ほんとに」
野獣先輩はそう言ってタクシー代を払い、
ふらつく足取りで車を降りた。
俺もすぐに降りて、野獣先輩の身体を支える。
「大丈夫ですか?」
「……ちょっと重力が強いだけだ」
「地球のせいにするの、やめてください」
玄関の鍵を開け、靴を脱いで家の中へ。
案内されるままにリビングへ入ると、俺は思わず息をのんだ。
「……ジム?」
そこには見慣れない器具がいくつも並んでいた。
ダンベルラックにランニングマシン、
懸垂マシンにベンチプレス台。
まるでトレーニング施設だ。
しかも、すべてが使用感バリバリだ。
「仕事の後はここで汗を流すんだ。体が資本だからな……うっ」
「今は寝てください、体が資本の人」
先輩の腕を支えて、寝室と思しき部屋へ連れて行く。
無駄に広いベッドに彼をそっと寝かせると、彼はぐったりと身を沈めた。
「冷たいの、持ってきますね」
そう言って俺はリビングへ戻り、冷蔵庫の扉を開けた。
「…………」
そこに広がっていたのは、まるで――バナナ農園。
整然と並ぶバナナ、バナナ、バナナ。
冷蔵庫の中には、バナナしかなかった。
ドリンクの棚にも、バナナシェイク。
冷凍室にもバナナアイス。
「ここ…、果物屋か?」
思わず独り言を漏らす俺。
とりあえず、その中の一本を手に取って寝室に戻る。
「先輩、バナナです」
ベッドに横たわる野獣先輩に差し出すと、彼はかすかに笑った。
「……やっぱり、風邪の時はバナナに限るな」
「そう…ですね」
納得するように野獣先輩はゆっくりとバナナを口に運び、小さくうなずいた。
「……ありがとうな、小鹿」
その声は、かすかに震えていた。
疲れと熱で弱った彼の表情は、どこか子どものようだった。
「いえ、これもチームの一員としてですから」
そう答えながら、俺はそっと部屋のカーテンを引いて、光を遮る。




