03.繰り返す
夢ではなかったにしろ、ちゃんとまともな人間に戻れたのだ。
あの魔女に飲まされたよくわからない粒は「竜にしてしまう薬」だったのかも知れないが、時間がきてその効果が切れた、というところなのだろう。
「あ、待てよ。魔女の薬だとしたら……今は朝だから人間になったけど、夜になったらまた竜になったりして」
そういう可能性は否定できない。
少女が現れたのは、もうすぐ夜になる、という時間帯だったし、ああいった存在は夜に活動するもの……と聞いたような、聞かなかったような。
祖父が遺してくれた懐中時計があるが、あの時は見る余裕なんてまるでなかったので、正確な時間はわからない。
とにかく、まだ安心はできなかった。
たった一晩だけ人間を竜にするためだけに、どこに棲んでいるのかわからない魔女がこんな所まで来るだろうか。特に何かを要求してくるでもなく。
もしかしたら、わざと安心させてるのかも。
魔女の情報は、ほとんどないのだ、レガルスには計り知れない、別の意図が潜んでいるとも限らない。
いきなりひどい目に遭わされたレガルスは、かなり疑心暗鬼になっていた。
その日はとても仕事をする気にもなれず、またいきなり竜になってしまった時に誰かに見られたりしないよう、木陰に身を潜めて時間を過ごす。
ぼんやりしていたかと思うと、手や足などに銀のうろこが現れてないかとせわしく確認する、ということを一日中繰り返していた。
しかし、何の変化もない。
やがて、陽が傾き、昨日と同じくらいの時間になった。
緊張で、レガルスの鼓動が速くなる。夜になったらまた……と思うと、不安で息も荒くなってきた。
十六年の人生で、ここまで胃が縮む思いをしたことはない。
しかし、十六夜の月が空にあっても、レガルスの身体が変わることはなかった。
「夜になっても……変わらないのか? 本当にあの薬……かどうか知らないけど、効果は消えたのかな」
こちらを油断させておいて、なんてことも考えたが、魔女はいきなり現れていきなりレガルスを竜に変えた。今更、油断も何もないだろう。
あちらは、人間などどうとでもなる、と思っているだろうし、実際どうとでもなるのだから。
まさか月の光に当たると変わる、なんてことは……と思いながら、レガルスは木陰から出る。
だが、やはり何も起きなかった。
朝、人間に戻ったとわかった時のように、レガルスはまた力が抜けて座り込む。
もう……大丈夫なんだ。あの魔女の目的はわからなかったけど、効果は昨日の晩だけで終わったんだ。
次の夜も、さらに次の夜も、レガルスが竜になってしまうことはなかった。
安心して仕事ができるようになったレガルス。竜になったのはやはり夢だったのでは、とさえ思うようになってきた。
だが、七月に入り、欠けた月が再び満ちた夜。
レガルスは竜になった。
☆☆☆
三週間も過ぎた頃には、レガルスの頭から「自分が竜になった」という記憶は薄れつつあった。
何かの拍子でふと思い出すこともあったが、時間が経つにつれ、実感がなくなってくる。
竜になったことが夢ではなかった証拠に、巨大な足跡があったことはちゃんと覚えているものの、それすらも何だかうそっぽく思えてきた。
ずっと頭が混乱していたから、獣の足跡がたまたまそこにあったくぼみと重なってそう思ってしまったのでは、と。
「あー、腹減ったな」
その日、街へ魚を売りに行ったレガルス。夕暮れになる頃には、寝起きするだけの粗末な小屋へ戻って来た。
食事の用意をするべく、水を入れた桶に手を入れる。その中では自分用に残しておいた魚が泳ぎ、レガルスに捕まえられると激しく尾を振って逃げようと抵抗した。
暴れる魚を気にすることもなく、レガルスは魚をさばくためのナイフを取ろうと手を伸ばす。
「え……」
身体の中で、急に熱いものが生じた。記憶が一気に、一ヶ月近く前までさかのぼる。この感覚には、覚えがあった。
まさか、これって……。
身体の中の熱いものは、急激にふくれていく。身体の中は熱いのに、この状況にレガルスは血の気が引いて寒さすら感じた。
握りつぶしそうになった魚を桶の中へと投げ入れ、レガルスは急いで小屋から飛び出す。
この感覚が本物なら、ここにいてはまずい、と本能的に感じたのだ。
熱いものは、どんどんふくれていく。覚えのある身体が爆発しそうな感覚に、レガルスは堪えきれずに叫んだ。
また……またなのか。
自分の口から出た音は、予想通りに人間の悲鳴ではなかった。巨大な獣の咆吼だ。
先月と全く同じ状態であれば、竜の。
声を出すと、熱いものはすっと消えた。まるで何もなかったかのようになったが、身体の感覚は今までと違う。
誰か、夢だと言ってくれ……。
恐る恐る自分の手を見ると、銀のうろこに覆われた大きな手がそこにあった。指先には鋭い爪も。
確認する気にもなれないが、目をやれば足もやはりうろこに覆われている。
何だよ。何なんだよ、この時間差攻撃。あれで終わりじゃなかったのかっ。
自分の身体の異変に、レガルスは頭を抱える。こんな最悪の状況を、どうしたらいいのだろう。
しばらくうなだれていたレガルスは、周囲を見回した。
もしかしたらこの様子を見に、あの少女が近くに現れているのでは、と思ったのだ。
きょろきょろと見回してみたが、あの少女どころか獣一匹すらも見当たらない。何かいたとしても、さっきの咆吼できっと逃げてしまっただろう。
人間なら腰を抜かして倒れているかも知れないが、そういう姿もない。人間に関しては、今はその方がよかった。見られたら大騒ぎだ。
どうしてだよ。まだあの妙な粒の効果が残ってたのか? だけど、どうしてこんなに時間が経ってからなんだ。同じ効果を発揮するなら、普通は次の日になるものじゃないのか。……そういう性質? いや、何にしろ、俺にとっては全然慰めにもなってない。
レガルスの小屋がある周辺には、人は滅多に来ない。だが、こんな姿を見られると面倒だ。それに、前回のように「人間の身体に戻る」という保証もない。
レガルスは湖へ向かい、近くの木の陰に隠れた。
もし戻らなければ、先月も考えたように、このまま森の奥へ身を潜めなければならない。明るくなってから移動していては、見られてしまう可能性が高くなってしまう。
何も悪いことをしていないのに隠れるなんて、と腹立たしいが、見られたら何をされるかわからない。
レガルスは、大きなため息をついた。
あの少女……魔女は、レガルスがまたこうなっていることをわかっているのだろうか。この身体を見て不満そうに「小さい」などとつぶやいて消えたくらいだから、どうなっていようと知ったことではない、と思っていそうな気もする。
木にもたれていたレガルスは、背中に違和感を覚え、振り返った。
首は人間の時より若干長くなったような気はするが、やはり限界がある。それでも、何とか背中を見ると、何かがくっついているのが見えた。
意識すると、動いた……ような気がする。
もしかして……翼?
普段はない感覚なのでしばらく苦労したが、間違いなく自分で動かせるようだ。
やがて、背中の違和感は竜の翼だと判明。前の時は身体がこうなってしまった、ということだけに意識が向き、気が付かなかったらしい。
飛べる……のかな。
翼の幅は両手を広げたより小さい。高さは、肩から腰あたりまで。薄いが、丈夫そうだ。
さすがに翼にうろこはないが、全体的に身体と同じような色をしていた。その翼を意識して動かそうとすると、わずかに身体が浮く。
これは、飛ぶって感じじゃないな。身体が地面から少し離れてる、という程度。移動するなら、歩いた方が絶対に速いぞ。だけど、前みたいにちゃんと人間に戻るかはわからないし、しっかり動かせるようにした方がいいかも。
こんな発見などしたくもなかったが、今はこれが自分の身体の一部であることに間違いない。使いこなせるに超したことはないだろう。
これは前向きと言うより、もしもの備えだ。
しかし、今は「飛行の特訓をしよう」という気分にはなれない。
ようやく忘れかけていたのに、また悪夢がよみがえってしまった。いや、悪夢ではなく、最悪の現実だ。
レガルスは動く気にもなれず、足を投げ出すようにして座ったまま、ぼんやりと満月を映す湖面を眺めていた。
少しうとうとしていたのだろうか。ふと気付けば、月の代わりに朝日が周囲を照らしていた。
ああ、朝になったんだなぁ、と寝起きの頭で考える。
「あれ?」
手を見れば、人間の手がある。自分の意思でちゃんと動く、自分の手だ。
「戻った……?」
前回と同じだ。朝になったら、人間の姿に戻っている。
よかったぁ~、とひとまず安心はしたものの、今度はさすがに油断できない。また竜の姿になってしまうのでは、と毎日が不安の連続だ。
夜のとばりが下りる少し前に竜になったが、次になる時は昼間かも知れない。
時間が経っても、前回のように「実感がなくなってきた」という感覚にはならなかった。二度も同じことがあっては、気楽に構えてはいられない。
そして、レガルスの不安は的中する。
一ヶ月と経たないうちに、レガルスはまた竜になってしまったのだ。